九、長二郎と美津の再会
秋も深まり、黄色い銀杏の葉が散り敷く道を長二郎が歩いていた。
このところ暇を持て余し、岩田屋の『梅清香』の引札をまた懐に忍ばせ、自分を売り込む機会を狙っている。
薬種屋にまた売り込むわけにもいかず、どうしたものかと悩みながら長二郎の足は江戸橋広小路へと向かっていた。
ここには露店が並び、古本や古着、小間物から鍋釜など、日々の暮らしに必要なものが売られている。
そのとき、季節外れの鶯の鳴き声がした。
長二郎が振り返ると、竹笛売りの前で赤子をあやしている女がいた。
―あの女は?
歌川国久の使いで長二郎を訪ねてきた女だ。
背負っているのは、あのとき腹にいた赤子だろうか。
女は会うたびに違った顔を見せる。
女も長二郎に気づいたようだ。
笑みを浮かべながら近づいてくる。
「あのときは、失礼しました」
歌川国久の絵を自分が届けずに、人に託したことを詫びた。
「いや、あれは、もう済んだことです」
そう言うと長二郎は赤子の顔を見た。つぶらな瞳をした可愛い女の子だった。
女は赤子の背を軽く叩きながら、気恥ずかしそうな顔をする。
「どこかに出かけるんですか」
女は大きな風呂敷包みをさげている。
「上総に帰ろうかと」
江戸橋から出る木更津船で上総の実家に帰るのだと言った。
「赤子を見せに行くんで?」
「いえ、江戸を引き上げようかと思って」
「えっ、どうして、絵師の修業は?」
「もう無理なんです」
女は思いつめた表情をする。
長二郎が自分の名を告げると、女も美津と名乗った。
そして、噺家のおじさん、可楽を頼って江戸へ来たのだといった。
「そいつは奇遇だな、あっしも可楽師匠を知ってますよ」
長二郎が戯作者の三馬の家で可楽と会ったことがあるというと、美津は三馬の世話で歌川国久のもとに弟子入りしたのだといった。
「これも、なにかの縁だ」
長二郎は自分が気落ちしていることも忘れ、美津の力になりたいと思った。
「どうして無理なのか、話してくれませんか」
「ええ、でも」
美津がためらっていると、何度もこうして会えるのは、見えない縁で結ばれているからだと、長二郎は口説き文句のようなことを口にする。
美津は微笑みを返すと、江戸へ来てからのことを話しはじめた。
歌川国久に弟子入りはしたが、美津は墨摺りばかりさせられた。
男の弟子たちは、師匠から鏡や行灯などの絵を模写をするようにいわれるが、自分には言葉も掛けてくれなかった。
そうした日が何日か続いた。
師匠に呼ばれたときは、指南が受けられると美津は喜び勇んで、師匠の仕事部屋へと向う。師匠は一心不乱に絵を描いていた。
その後ろ姿には鬼気迫るものがあり、言葉を掛けることができず、しばらく、師匠の背中を見つめていた。
体はたくましく、見た目よりも若々しい感じだった。
師匠は何を描いているのだろうと、恐る恐る近づき、美津は思わず立ちすくんだ。
そこには男女の濃厚な睦み合いが描かれていたのだ。
美津が逃げ出そうとすると、師匠は筆を置いて顔を上げた。
「逃げるでない!」
美津は裾を掴まれ、体を引き寄せられると絵の前に連れて行かれた。
「しっかり目を開けて、見ておくのだ」
誇張された陽物が、微細な筆致で描かれた枕絵(春画)だったのだ。
「絵師になろうとする者が、うろたえてどうする」
枕絵は享楽的な風俗画として、お上から禁じられていたが、好事家の間では秘かに売買されていた。
「いいか、よく聞け、枕絵を描かぬ絵師など、おらんぞ」
師匠はそう嘯くと、いきなり熱い吐息を吹きかけ、美津を押し倒した。あまりの突然のことに美津は抗うことができなかった。
その翌日から師匠の絵の手ほどきがはじまった。
美津は画題に真紅の椿を選んだ。椿の花は落下しても命を守り切ろうと、すぐに色あせることはない。そんな椿のしたたかさに、美津は魅かれたのだ。
美津は必死で描いた。
師匠は美津の描いた椿の絵を見て、お世辞かも知れないが、意気に描けていると言ってくれた。
これは最高の褒め言葉だと嬉しくなり、これで女絵師としての一歩を踏み出すことができると思ったとき、美津は師匠の子を身ごもっていた。
師匠に打ち明けると、ここに住めばよいと言ってくれた。
可楽には内弟子が認められたと話して、亀沢町の師匠の家に移り住んだ。
師匠の家で暮らすようになって、師匠が無類の女好きであることがわかった。女を家に連れ込むこともあるが、何日も家を留守にすることもある。
美津は絵に打ち込み、余計なことは考えないようにした。
そんなときに師匠が、『花の露娘六花撰』の絵師の一人に選ばれたのだ。
美津は、お腹が目立つようになり、可楽に黙っていることはできなくなった。歌川国久の子を身ごもったことを打ち明けると、可楽は国元へ帰れと言った。美津は師匠の代作で『花の露娘六花撰』の一枚を描くことになり、その絵が完成したら上総に帰ると、可楽に約束した。
美津が代作を命じられたのは、師匠のお情けだと陰口をたたく弟子もいた。何と言われようと構わない。この機会を逃すわけにはいかないのだ。
だが、身重の体では小町娘を探すことはできない。美津は手掛かりを求めて、花露屋を訪ねたのだった。
「そういうわけで、可楽おじさんとの約束で上総に帰ることに」
「それでいいんですか」
「もう決めたことなんです」
師匠は生まれた娘を慈しんでくれず、美津が枕絵を描くことを拒むと、絵の手ほどきもしてくれなくなった。女としても絵師としても疎んじられ、美津は国元に帰るしかないと、江戸橋広小路にやってきたのだ。
「女絵師になろうと、江戸に来たんでしょう?」
「絵を描くことが好きだから、あきらめたくはないけど」
「あきらめたら、おしまいですよ」
「それは、わかっていますが」
美津の気持はまだ揺れ動いている。
「上総に帰ることはありませんよ」
長二郎はいまの自分の心境と重なり、美津のことが人ごととは思えなかった。
―そうだ、自分が引札文を書き、美津が絵を描けば・・・・。
長二郎に一筋の光明が見えてきた。
「美津さん、あっしと一緒に仕事を始めましょう」
二人で力を合わせれば、引札づくりを商いにすることができると、長二郎は熱く語りはじめた。
「でも、この子がいては」
美津は乳飲み子を抱えては無理だといった。
「その子の名は、なんというんですか」
「由美です」
美津の「美」の字をとり、由美と名付けていた。
「あの、わたしと一緒になってくれませんか」
「えっ!」
美津が驚いて聞き返す。
「由美ちゃんは、わたしの子として育てます」
「そう不意に言われても」
長二郎とはまだ三度しか会っていない。
「わたしのこと、嫌いですか」
「いえ、そんなことは」
あまりに性急すぎて、美津は戸惑うばかりだ。
「実は、汁粉屋で会ったときから・・・・」
長二郎は、美津に好意を寄せていたことを打ち明ける。
「美津さんとは、やっぱり、見えない糸で結ばれていたんですよ」
「まあ!」
美津が笑った。
「あっしに任せて、上総へ帰ることは、やめにしてください」
美津が小さく頷いた。
江戸橋広小路は、昼から夜の賑わいに変わろうとしていた。