ぷう、それは江戸(下巻)

十、貰い火で三馬店焼失

三馬とお杉の間に生まれたのは、やはり男の子だった。

三馬は自分の幼名とらの助をとって、息子にも虎之助と名付けた。

後継者に恵まれ、『江戸の水』は売れに売れ、女中湯之遺漏の後に『浮世風呂』男湯再編を書き、髪結い床を舞台にした『浮世床』も評判を呼んでいた。

三馬の商いと戯作の蛇づかいは、まさに言うことなしだった。

持病の痛風も小康状態を保ち、落語の会にも顔を出していた。そのときの模様や噺家たちの様子を綴った『落語中興来由』も世に出した。

それは冬の明け方だった。

三馬は鼻を突くような臭いで目が覚める。
「火事、火事ですよ!」
お杉は虎之助の手を引くと外に飛び出した。

三馬は二階に駆け上がり、書きかけの戯作と銭が入った信玄袋を抱えてきた。
「お前さん、さあ、早く!」

お杉の恐れていたことが起こったのだ。

半鐘がけたたましく打ち叩かれている。本町通りは煙が立ちこめ、逃げ惑う人たちで溢れていた。

炎が上がるたびに火の勢いが強くなる。

お杉は、虎之助の着替えを持ち出さなかったことに気づき、家に引き返そうとした。
「馬鹿、逃げるんだ!」

三馬に引き戻される。

三馬店のあたりは煙で何も見えない。
「どこへ行くんですか」

お杉は寒さと恐怖で震えている。
「取りあえず、本所の伯母さんのところに」

三馬は、川向こうのお初の長屋へ行くことにした。


火元は樽屋が店貸しをしていた煮売屋だった。

早朝に店の者が、煮豆を煮るかまどに火を入れ、火だねをわらの上に落としてしまい、それに気づかず火があっという間に燃え広がったというのだ。

本町通りの数軒が類焼し、三馬店は全焼した。店も住むところも一瞬にして失い、三馬たちは、お初の長屋でしばらく世話になることにした。

虎之助は泣いてばかりいる。

お杉も火事の衝撃で食べ物がのどを通らなかった。

真っ先に駆けつけてくれたのは弁造だった。虎之助の着替えがないと分かると、照降町界わいの知り合いをまわり、着替えをわけてもらってきた。

長二郎は実家の松島屋から夜具を借りてきてくれた。

災難に遭ったときの人の情けほど嬉しいものはない。三馬は声を詰まらせ、二人に感謝するのだった。

可楽は火事見舞いだといって、米を担いできてくれた。
「また、振り出しに戻っちまったよ」

三馬はどん底に突き落とされたような気持だった。
「沈む瀬もあれば、浮かぶ瀬もあるよ」
「そうね、可楽さんの言うとおりですよ。もう一度、やり直しましょうよ」

お杉はもう元気を取り戻していた。
「しかし、すぐには無理だ」

三馬はなぜか慎重だった。
「大家の樽屋さんに、お願いしてみたら?」
「そうは、いっても相手は町年寄だからな」

三馬店を開店するとき、借り受けに当たっては面倒なことをいわれ、すぐには店を貸してもらうことができなかったからだ。
「火元の煮売屋は大家さんの店子、焼け出されたうちも同じ大家さんの店子、空店あきだながあれば貸してくれますよ」
「なるほど、お杉さんの言うとおりだ。大家の樽屋は貸店かしだなをいくつも持っているじゃねェか」
「頼んでみる手はあるな」

可楽に後押しされ、三馬もその気になる。

文化三年の大火のときと違い、蓄えも少しはある。

三馬店は焼失しても、商いの手立てや信用は失っていない。空店さえ借りることができれば、三馬店を再開することはできるのだ。虎之助という跡継ぎもいる。

三馬はもう一度、式亭三馬店を再開してみることにした。


さっそく、三馬は大家である町年寄の樽屋と交渉した。

この七年間、店賃は一度も遅れたことがないこと、樽屋の店子である煮売屋の失火で、同じ店子の三馬店が類焼したことを強調した。

店を贔屓にしてくれる客のためにも、一日も早く店を再開したいので、空いている表店があったら貸してほしいと頼んだ。

樽屋の番頭は、これまでの三馬店の向かい側に空店があるので、それでよかったら貸してもよいと言ってくれた。

商人にとって店の移転は賭けでもある。離れた場所に移転すれば、これまでの客足が遠退いてしまう。それが同じ本町通りで、本町二丁目北側の中程となれば文句はない。三馬は迷うことなく借り受けることにした。

三馬は、徳次郎を手代から番頭にした。

三馬店の再開に向け、徳次郎は仕入れる品の目録をつくったり、薬種問屋から商品を取り寄せたりと、忙しく立ち働いている。そうした徳次郎の負担を軽くしようと、お杉は若い手代を雇い入れた。

三馬は京の延寿丹本舗に文を送り、店の再開のため『延寿丹』を早飛脚で送ってくれるようにと頼んだ。

三馬店は再び本町通りに店を開いた。

三馬が看板の取り付けを職人に指図していると、可楽が様子を見にやってきた。
「早かったな」

可楽は三馬の手際よさに感心する。
「いや、以前通りとは、まだ、いかねえよ」

揃わない商品がまだある。『延寿丹』も京からまだ届いていない。
「こう言っちゃあ、なんだが、空店があってよかったな」

可楽がにやりとする。
「商いは信用だよ」

三馬は再開できたことを誇らしく思っていた。