ぷう、それは江戸(下巻)

八、舌もて遊ぶは災いのもと

お杉は、やはり黙ってはいられなかった。

子の誕生を心待ちにしている三馬を、また糠喜ぬかよろこびさせてはいけないと、もう少し様子を見てから話そうとしたが、自分の胸にだけ収めて置くことはできなかったのだ。

お杉が新しい命を宿していることを告げると、三馬はよほど嬉しかったのか、亡くなった弟平八の生まれ変わりだと言い、生まれてくるのは男の子だと決めつけるのだった。
「三馬店の後継ぎができたぞ!」

三馬が喜んでいると、弁造が駆け込んできた。
「長二郎さんが、てえへんです!」
「どうした?」
「しょっかれやした」
「しょっぴかれた?」
「へえ、自身番に連れて行かれやした」
「何をやらかしたんだ」
「〝ぷう〟を連発したということで」
「それだけのことでか」
「へえ」
「そいつあ、間尺ましゃくに合わねえな」
「あっしもそう思ったんですが、人を不快にしたとがだそうで」

何もすることがない長二郎は、また〝ぷう〟を広めようとしていた。
「また、ぷうぷうやったのか」
「どうしたら、いいでしょう」
「どうするも、こうするも、自業自得だろうが」
「お前さん、なんとかしてやっては」

お杉は、自身番に連れて行かれたと聞いただけで心配している。
「あいつには、いい薬だ」
「ちょっと、自身番をのぞいてやったら」
「どうして、わしが行かなくちゃ、なんねぇんだ」
「そんなこと言わずに、詳しいことがわかるかもしれませんよ」
「性懲りもなく、ぷうを撒き散らして、まったく、どうしようもねェ野郎だな」

三馬はそう言いながらも身支度をはじめる。
「どこの自身番だ」
「馬喰町でやす」

三馬は、弁造と一緒に馬喰町の自身番へ向かった。


自身番には町奉行から定町廻じようまちまわり同心がきていた。

岡っ引きが、同心に状況を話しているところだった。

長二郎が青ざめた顔で土間に座っている。
「あの、ちょっくら、よろしいでしょうか」

三馬の声に長二郎が驚いた。
「なんだ?」

同心が見とがめるように言った。
「あっしは、式亭三馬と申す戯作者で、その者は、あっしの弟子にございます」

その言葉に長二郎の眉がピクピクする。

弁造も思わず三馬の顔を見る。
「まだ、お取り調べ中だ!」

岡っ引きから外で待つようにいわれ、三馬と弁造は自身番の外で待つことになった。

しばらくして同心のお調べが済んで、岡っ引きから中へ入るように言われると、三馬が尋ねた。
「この者の罪は、どのようなものでございましょうか」

同心はしばらく考えていた。
「こやつの罪状は・・・・風紀紊乱びんらんだ」
「風紀紊乱でございますか」
「左様、人心を乱し、人々を不快な気持にさせた罪だ」
「この者に他意はございません」
「他意はなくとも、ぷうなどと不謹慎な言葉を乱発しては示しがつかん」
戯言ざれごとにございます」
「皆が好き勝手なことを口走ったら、どういうことになる。人心が乱れ、収拾がつかなくなるであろう」
「もっともなことでございますが、若輩の戯言、なにとぞ、寛大なるご処置を」

三馬は頭を下げる。
「然らば、呵責刑かしゃくけいとする」

呵責刑は酔っぱらって人に迷惑をかけたり、出来心から人の物を掻っ払った者に科せられるもので、しかりとも呼ばれ、最も軽い刑罰だった。
「今夜は、自身番に留め置くこととする」
「明日には放免されますでしょうか」
「それはわからん、こやつ次第だ」

同心が素っ気なく言った。

長二郎は縋るような目で三馬を見ている。
「どうか穏便なる、ご処置を、お願い致します」

三馬は、同心と岡っ引きに一礼して帰ろうとする。
「先生、有難うございます!」

長二郎が両手を合わせた。

―情けねえ、面をして・・・・。

三馬は呟きながら自身番を後にした。
「てえしたこともなく、ほっとしやした」

弁造が三馬を追いかけてきた。
「とんだ、草臥者くたびれものよ!」
「先生の口添えのおかげで、刑も軽くなりそうで」
「さあ、そいつはどうかな」

同心の口振りでは、すぐに放免されるかは分からなかった。
「長二郎さんも、これからは気をつけますよ」
「利いた風なことを抜かすな」
「すんません」

弁造は慌てて頭を下げる。

弁造とは通油町の通りで別れ、三馬は一人になると『侠太平記向鉢巻』で手鎖刑となったときの心細さを思い出した。

長二郎が捕まったと聞いたとき、三馬は江戸っ子の義侠心から長二郎を捨て置けないと思ったのだ。


その翌日、長二郎は放免された。

同心からは、また〝ぷう〟を口にしたら、次はもっと重い刑を科すと脅かされた。

それを知らせにきた弁造に、
「わしが出向くほどのことも、なかったな」

と、三馬が言った。
「そんなことありません。ですが、ちょっと、おかしなことに」
「どうした」
「猿ぐつわをさせられまして」
「猿ぐつわ?」
「口は禍の門ということで、余計なことを喋らねえように、日中は猿ぐつわをするように命じられやした」
「そいつはいい、あいつにピッタリの仕置きだ」
「夕方、松島屋に行ってみますと、晒しで猿ぐつわをした長二郎さんが、下足番をしていやした」
「下足番なら喋ることはねえだろうが」
「それが、客からどうしましたと尋ねられると、一緒に下足番をしている爺さまが、若旦那は歯痛で口を利くことができませんと、言い訳をしているんでやんすよ」
「とんだ、晒し者よ」

三馬は駄洒落を飛ばし、声をあげて笑った。


長二郎は猿ぐつわが解かれると、真っ先に三馬のもとにやってきた。
「その節は、ほんとうに有難うございました」

長二郎は持参した酒徳利を差し出し、三馬の口添えに礼を述べた。口のまわりには、まだ晒しのあとが生々しく残っている。
「先生が来て下さったときは、まさに、天の助けと思いました」

相変わらず口先だけは達者だ。
「見え透いたことを」
「いえ、本当でございます。地獄で仏に逢ったようでございました」
「天も仏も一緒くたに、調子のいいことを言うな」
「こうしていられるのも、先生のおかげです」

三馬が自身番で自分のことを弟子と言ってくれたことが、長二郎は嬉しくてたまらなかったのだ。
「これからは言葉には十分、気をつけるんだな」
「〝ぷう〟は一切、口にいたしません」
「一度流行ったものは、そう簡単には流行らねえんだ。だから、流行りというんだぞ」
「わかりました」
「まあ、たいした咎めもなく、よかった」

三馬も鷹揚に構え、長二郎を許してやることにした。