七、正月用の景物本
三馬は新しい引札を誰に配らせるかで悩んでいた。
和泉屋に頼むと、あの相撲取りのような引札配りがくるかもしれないからだ。
弁造に配らせたいと思うが、こっちから頼むのは、どうも、いまいましい。どうしたものかと悩んでいるところに、可楽が弁造を連れてやってきた。
「腹は立て損、喧嘩は仕損というじゃねェか」
三馬の腹の内を見透かしていたかのように可楽がいった。三馬も分かっているのだが、弁造を目の前にすると、やはり簡単には許すことができない。
「弁造も生きていくためには、あの長二郎の仕事と言えども、断ることはできねェんだ。勘弁してやったらどうだい」
「まあ、そうだろうが」
可楽の後ろに隠れるように座っている弁造を見ると、三馬も、そろそろ許してやる潮時かと思った。
弁造が、お初の髪結床の力になっていることは、お杉からも聞かされていたからだ。
「許したわけじゃねえぞ」
三馬は嫌みのひとつを入れてから、『江戸の水』の新しい引札を配るつもりだといった。
「天地神明に誓って、これからは三馬店の引札ひと筋、頑張らせていただきます」
「こやつ、調子のいいことを」
弁造の殊勝な言葉に、三馬は満更でもない顔をする。
「ともかく、頼むぞ」
「へぇ」
三馬の怒りが解けて、弁造はほっとした。
「これが新しい引札だ」
弁造は引札を受け取ると、名誉挽回とばかりに勢い込む。
「芝居小屋や絵草紙店、小間物店などの周辺を中心に、くまなく配りやすから」
「もめごとは御免だぜ」
芝居小屋や小間物店は、松本屋や花露屋の牙城だ。そんなところで配れば、ちょっとしたことでも騒ぎになる。もめごとというと、十年ほど前のことを思い出すからだ。
三馬の書いた戯作『侠太平記向鉢巻』が、火消し人足の喧嘩を茶化していると、火消し連中が鳶口を持って襲ってきた。板元だった西宮新六の家は打ち壊され、三馬は家財道具を放り出された。この騒ぎは町奉行所の知るところとなり、火消し人足は入牢となり、新六は罰金刑、三馬は手鎖の刑を受けたのだ。
「ご心配には及びません」
弁造は、ひとつ所には留まらないで、流しながら配るから大丈夫だといった。
「こたびは、配り団扇も用意している」
これは自社の名前や商品を入れて無料で配る、いまで言うところのノベルティである。
「江戸の水を買ってくれた客に差し上げるんだ」
「それで、団扇の絵はどうした?」
可楽が聞いた。
「歌川豊国に、お染め久松の油屋清兵衛に扮した沢村源之助を描いてもらったよ」
沢村源之助は品のある台詞まわしが持ち味で、女たちに人気のある役者だった。
「それと、江戸の水の景物本もつくることにした」
景物本は売り物ではなく、店を訪れた客に配るものだ。商売敵に対抗するため、三馬は次々と手を打っていた。
「それで、表題は決まっているのかい」
可楽に聞かれ、三馬はにやにやしながら『江戸水幸噺』だと答えた。
出来上がった景物本は、三馬らしい奇想天外な内容だった。
引札配りが『江戸の水』の引札を抱え
日本橋の上を歩いていると
そこに、そそっかしい鳶が現れ
引札を油揚げと勘違いし
さらって行こうとする。
その拍子に引札配りは
川に引札を落としてしまう。
折からの風に吹かれ
『江戸の水』の引札は川から海へと流れ
やがて竜宮界へと流れ着く。
引札は乙姫さまの目に留まり
ぜひ使ってみたいと『江戸の水』を取り寄せる。
乙姫さまが試したところ
あれ、不思議
潮風に黒づんだ顔が見る間に麗しくなった。
それを見た竜宮の鱗屑どもが
われもわれもと『江戸の水』を使い出す。
色の黒き鯨は真っ白になり
黒鯛は白鯛となり
烏賊の黒墨も白墨に変わった。
誠に不思議な妙薬なりと
竜宮でも大評判になったというのだ。
贋が出るは本家の繁昌と、三馬が言ったとおりだった。
類似品が出ても『江戸の水』の売れ行きはびくともしなかった。
お杉が皮の信玄袋を持って二階に上がってきた。
袋の中には店の売上げ金が入っている。
「お前さん、延寿丹を置いてくれる店が、だいぶ増えましたよ」
「京の延寿丹本舗にも、関東売弘所としての面目が立つな」
奥州から駿府にかけて、百四十七ヶ所の店が『延寿丹』を扱ってくれることになったのだ。
万屋のお良から借りた金も返し終え、あとは『江戸の水』の儲けの一部を渡すだけとな
っていた。
「これで落ち着いて、戯作に励めそうですね」
「化粧水のおかげだ」
「それを言うなら、江戸の水でしょう」
「そうだな」
三馬はにやりとする。
「今度の浮世風呂も、評判、間違いなしですね」
「あったりめェだ」
三馬は女湯の続編、女中湯之遺漏を書き終えたところだった。
「あの―」
お杉が言いかけたとき、遠くで半鐘の音がした。
「また、火事か!」
三馬が立って外を見るが、火の手も煙も上がっていない。
「風もねえようだし、心配することはねェ」
「よかった」
「おめえ、いま、何か言いかけたんじゃねェか」
「えっ、いえ、べつに」
お杉は何でもないと答えた。