ぷう、それは江戸(下巻)

六、白粉のよくのる薬

長二郎はまた松島屋の下足番へと舞い戻った。

花露屋での失敗がこたえて、なかなか次の手を打つことができない。

長二郎は久しぶりに三馬店へやってきた。
『延寿丹』の垂れ幕が、店の繁盛ぶりを示すかのように際立っている。

長二郎は店の様子をうかがった。

お杉が『御歯磨き粉』の山にハタキを掛けている。
「おかみさん、ご精が出ますね」
「あら、おめずらしい」

お杉にしては、よそよそしい挨拶だ。
「近ごろ、江戸の水、江戸の水と、巷の評判よろしく、結構なことにございます」

長二郎は相変わらず調子のよい挨拶をする。
「おかげさまで、近ごろは贋の水にも負けず、江戸の水、江戸の水と、皆々様方に、ご贔屓にしていただいております」

お杉は贋の水というところに力を込めた。
「それは、結構毛だらけ、猫灰だらけ」

長二郎がおちゃらかすと、お杉も負けじと言い返す。
「白粉のはげぬ薬、はげぬ薬と、結構な評判にございます」
「おしろいのはげぬ薬?」
「はい、江戸の水は、おしろいのはげぬ薬でございます」

長二郎の眉がピクピクと動いた。
「女子衆が使う化粧水に、はげぬ薬とは、いかがなもんでございましょう」
「よくないというのですか」
「はげるといえば、頭髪がはげる、色がはげる、化けの皮がはげる。おっと、化けの皮はあたまはがれるでした。はげるは悪しきことばかりでございます」
「はげるのではなく、はげぬと申しているんですよ」

お杉はむっとする。
「その、はげぬも、よろしくないですね」

長二郎の偉そうな態度に、お杉は呆気にとられる。三馬のもとに引札書きのコツを伝授してほしいと訪れたのは、ついこの間のことだ。
「おかみさん、よくのる薬としたらいかがでしょう」
「よくのる薬?」
「白粉のよくのる薬なら、御女中たちも使ってみたいと、思うのではございませんか」

長二郎は、三馬が書いた引札文に注文までつける。
「うちのひとに話してみましょうか」

お杉が二階へ行こうとする。
「おかみさん、ちょっと用事がありますので失礼します」

長二郎は逃げるように帰ってしまった。


三馬は、お杉から長二郎の指摘を聞くと、いつもの調子で怒り出す。
「はげぬもよくのるも、ちげぇはねェだろう。はげねえから、よくのるってことだろうが、あの野郎、どの面下げてきやがったんだ」

花露屋の売り広めで長二郎がしくじったことは、三馬も知っている。のこのこ、やって来たのは何か魂胆でもあって、すり寄ってきたのではないかと思ったのだ。
「だいたい、はげぬというくだりは、お前が言ったことじゃねえか」

お歯黒の件を持ち出し、お杉に八つ当たりする。
「そうですが」

お杉は、長二郎に言われたことが頭から離れず、先ほどから気になっている。

三馬も怒りがおさまらず、『江戸の水』の引札を取り出してくる。
「よく見てみろ、おしろいのうつり悪しき御顔によくのり、はげざる事と、ちゃんと書いてあるだろう」
「おしろいのはげぬ薬よりも、長二郎さんがいうように、おしろいのよくのる薬としたほうが」
「くだくだ言うな!」
「お前さん、そう意固地にならず」
「なにが意固地だ!」

三馬の怒りは頂点に達した。こうなると手に負えなくなる。

―はげぬも、よくのるも、同じだなんて・・・・。

お杉がそっと呟やいた。

言葉えらびには人一倍うるさい人が、気づかぬはずはない。わかっているのだ。人から指摘されると、どなり散らしてしまうのだ。こういうときは逆らわずに、そっとして置くのが一番だと、お杉は座敷を出て行った。


三馬は独りになると、また怒りが込み上げてきた。

―あの野郎!

指南を仰ぎにきたことも忘れ、いっぱしの引札書きを気取りやがって、俺の書いたものにケチまでつけるとは、あきれけェって物も言えねェ。いい度胸をしてやがるじゃねェか。いつからそんなに偉くなったんだ。

ほざいてみたところで、調子を合わせてくれる相手はいない。怒りを抱えていては、戯作の筆を執ることもできないと、大の字になって天井を睨んでいた。

しばらくすると気になり、『江戸の水』の引札を手に取って読み返す。

長二郎から指摘されたところにくると、声に出して読んでみた。

そういえば『江戸の水』の引札を書いたとき、お杉が「はげざる事、請け合いなり」と言い切ってよいのかと、しきりに気にしていたことや、こういうことは言い切ったほうがよい、中途半端な言いまわしは伝わりにくいと、お杉を叱りつけたことを思い出した。

ところが、その一方で長二郎には、確実な事をもって巧みに書けと教えていた。

三馬は自分の矛盾に気づいた。

お杉が心配したように、はげざる事は請け合えるものではない。

大仰すぎる引札は、三馬店の命取りにもなりかねない。

長二郎が言うように女たちが使う『江戸の水』の引札に、「はげぬ」は適切な言葉ではないと気づいた。

三馬は『江戸の水』の引札文を書き直すことにした。
「おしろいのはげぬ薬」は、「おしろいのよくのる薬」と替えた。

だが、「はげず」という言葉は引っ込めず、表現を変えて使うなど、三馬も意地をみせるのだった。


おしろいのよくのる薬江戸の水は
夏は汗をかきてもはげず
冬は風に当たりてもはげず
又、化粧をすることの嫌いなる御方
常に此薬水を塗り給うべし
おしろいをつけずとも顔に艶を出す
別して申上候
此薬水の色を似せて
おなじ物とみせかけ
江戸の水と種は同じ事じゃなど
申すもあるように承り
馬猿まさるの目印、江戸の水と
よくよく御改め御求め、遊ばされるべく候