ぷう、それは江戸(下巻)

五、芝神明宮での美女選び

朝から快晴に恵まれ、祭り日和となった。

神明宮の境内には近郊の村から生姜が運び込まれた。

生姜には毒消しの効果があり、月に三日、生姜を食べれば風邪を引かないといわれる。
人々は風邪封じのために、生姜を求めて生姜市にやってくるのだ。

芝居小屋は葦簀よしずを張り終え、客を迎える支度が整っていた。

神社仏閣での興行は小芝居と呼ばれ、寺社奉行の管轄下にある。

町奉行支配下の芝居小屋と区別され、やぐらや引幕、花道、廻り舞台などの使用が禁じられている。

引幕の替わりに緞帳どんちょうが用いられることから緞帳芝居とも呼ばれる。

木戸銭が安く、庶民が気軽に楽しむことができた。露天商の店先には、串だんごや田楽、饅頭などが並んでいる。

長二郎は、絵師たちから届けられた『花の露娘六花撰』に目を通している。
『夕涼みをする女』
『髪を洗う女』
『唇に紅を引く女』
『髪を梳く女』
『晴れ着に袖を通す女』

女たちの日々の暮らしを描写した絵に、『花の露』が間違いなく描かれているか、絵に書かれた添え書きに手落ちはないかを調べる。
「遅いな、どうしたんだろう」

歌川国久の絵が届かないので、長二郎はやきもきしている。

女は祭りの三日前に届けると約束したのに、祭りの当日になっても届かないのだ。

長二郎は神明町の通りまで出て見るが、女らしき人影は見えない。

歌川国久の絵が届かないようなことになると、『花の露娘六花撰』は『花の露娘五花撰』となってしまう。それではせっかくの仕掛けが、ぶちこわしとなる。

長二郎はいらいらしながら待っていた。
「もしや、花露屋の先生では?」

年寄りの男から声をかけられた。
「お前さんは?」
「歌川国久の使いの者です」

男は紙筒のようなものを持っていた。
「遅いではないか」
「申し訳ございません」

男は急いで来たのか、額に汗をかいている。

長二郎は、男から歌川国久の絵を受け取った。
「ところで、先日、お見えになった女の人は?」
「それが―」

男は言いかけて口をつぐむ。
「どうしたんです」
「産み月が近くなりまして」
「そうか、来られなくなったのか」
「へえ、それで、あっしが」
「そうだったのか」

長二郎も、ひょっとするとそうではないかと思っていた。


歌川国久の絵には『鏡を見る女』という題が付けられていた。

片肌脱いだ女が、鏡に映った自分の顔を見つめているという構図だ。

その女の顔に長二郎は見覚えがあるような気がした。

そうだ、汁粉屋で会ったときの女の表情にそっくりだった。

絵の左下には『花の露』の小壺が描かれ、「肌をうるおす薬ゆえ、常に用いれば顔によし」と、添え書きがあった。

長二郎は指物師さしものしに、『鏡を見る女』も木枠に入れるよう指示する。

これで競作『花の露娘六花撰』はすべて揃った。あとは飾る配置を考えるだけだ。

長二郎は六枚の絵を見比べていた。
『髪を洗う女』
『髪を梳く女』
『唇に紅を引く女』
『鏡を見る女』
『晴れ着に袖を通す女』
『夕涼みをする女』

女が装いを凝らす順に並べてみると、『鏡を見る女』は女の注文どおりの場所に落ち着いた。


花露屋の店先には甘酒を入れた釜が据えられた。

化粧水『花の露』を買った客に、甘酒が振る舞われるのだ。

花露屋は男っぷりのよい手代を店頭に立たせ、女客を呼び込もうと、手ぐすねを引いて待っている。

まだ早いせいか、訪れるのは生姜市を訪れる客ばかりだ。

生姜を背負った父親が、男の子の手を引いて通りかかる。子どもが甘酒を飲みたそうな顔をすると、父親は息子の手を取り、足早に帰っていった。

しばらくすると、三人連れの男が参道の露店を冷やかしながらやってきた。
「もし、美女えらびをなさいませんか」

花露屋の手代が男たちに声をかける。
「美女えらび?」

細面の男が聞き返した。
「化粧水の売り出しを祝って、ただいま、美女えらびをしております」
「どうやって、美女をえらぶんだ」
「さ、さ、こちらにどうぞ!」

手代は、『花の露娘六花撰』が飾られている場所に細面の男を連れて行く。どんぐり目をした男と、にきび面の男も付いてきた。
「この六枚の絵から、お好みの美女を一人選んでください」
「好みの女?」

どんぐり目の男が目を丸くする。
「どうやって選ぶんだ」

にきび面の男は、にやにやしている。
「どうぞ、これをお使いください」

手代は竹串を三人の男に一本ずつ渡す。
「それぞれの絵の前には、竹筒がございますので、美女と思われるところの竹筒に、竹串を入れてください」
「おもしれえじゃねェか」

にきび面の男は、竹串を『唇に紅を引く女』の竹筒に入れた。
「おいらは、この女だな」

細面の男は、歌川国久の『鏡を見る女』を選んだ。
「おれも、この女にしよう」

どんぐり目の男も『鏡を見る女』に入れる。
「それで、美女はいつ分かるんだ」

どんぐり目の男が手代に聞いた。
「祭りの最後の日に、一番の美女がわかります」
「それまで、お預けか」
「祭りの十一日間で、選んでいただくということになります」
「あと十日も先か!」

にきび面の男が「ちぇっ!」と舌を鳴らした。
「その日は女子衆も、お誘いになって、どうぞ、また、お越しください」

その言葉も聞かずに、三人の男は帰ってしまった。


芝居が跳ねると、境内は女たちで溢れた。見てきたばかりの芝居に興奮し、あちこちから女たちのお喋りや喚声が聞こえてくる。

女たちの行列が参道を下ってくると、花露屋の手代たちが一斉に呼び掛けた。
「本日、オランダ名方の化粧水の、売り出しにございます」
「化粧油の花の露ともども、化粧水の花の露も、ご贔屓のほど、よろしく、お願い申し上げます」
「お買い求めくださった方には、甘酒を振る舞わせていただいております」
「まずは、お試しください」

手代が、女の手に化粧水を垂らそうとした。すると女がいらないと手を引っ込めた。

女たちの気を惹こうと、男っぷりのよい手代が進み出た。
「さて、皆々様方、本日は六人の絵師による、美女くらべがございます」

男前の手代から美女くらべといわれ、女たちの足が止まる。
「さあさあ、こちらに、お越しください」

男前の手代は、女たちを『花の露娘六花撰』の前へと誘う。
「あっ、路考茶の着物!」

誰かが叫ぶと、女たちは『晴れ着に袖を通す女』に群がった。

女形の二代目瀬川路考が、芝居のなかで路考茶の着物柄を着用して評判になった。
「これは、吉弥結び!」

その声に女たちは『夕涼みをする女』の前に集まった。

女形の上村吉弥が芝居で、帯の両端を唐犬の耳のように、だらりと下げた結び方をしたことから吉弥結びと呼ばれた。
「皆さま、この絵の中から、これはと思う美女を一人、お選びください」

男前の手代が竹串を渡そうとしても、女たちは見向きもしない。
『花の露娘六花撰』に描かれた着物柄や、帯の結び方に興味を示し、美女えらびにはまったく関心がなかったのだ。


翌日から雨が降り、晴れたのは祭りの初日だけだった。

だらだら祭りを象徴するかのような長雨が降り続いた。
『花の露娘六花撰』は取り外され、美女えらびは尻切れとんぼとなった。

長二郎の目論見は外れ、惨憺たるものだった。

花露屋の主人からは「仕掛け倒れだ」と皮肉られた。