五、芝神明宮での美女選び
朝から快晴に恵まれ、祭り日和となった。
神明宮の境内には近郊の村から生姜が運び込まれた。
生姜には毒消しの効果があり、月に三日、生姜を食べれば風邪を引かないといわれる。
人々は風邪封じのために、生姜を求めて生姜市にやってくるのだ。
芝居小屋は葦簀を張り終え、客を迎える支度が整っていた。
神社仏閣での興行は小芝居と呼ばれ、寺社奉行の管轄下にある。
町奉行支配下の芝居小屋と区別され、櫓や引幕、花道、廻り舞台などの使用が禁じられている。
引幕の替わりに緞帳が用いられることから緞帳芝居とも呼ばれる。
木戸銭が安く、庶民が気軽に楽しむことができた。露天商の店先には、串だんごや田楽、饅頭などが並んでいる。
長二郎は、絵師たちから届けられた『花の露娘六花撰』に目を通している。
『夕涼みをする女』
『髪を洗う女』
『唇に紅を引く女』
『髪を梳く女』
『晴れ着に袖を通す女』
女たちの日々の暮らしを描写した絵に、『花の露』が間違いなく描かれているか、絵に書かれた添え書きに手落ちはないかを調べる。
「遅いな、どうしたんだろう」
歌川国久の絵が届かないので、長二郎はやきもきしている。
女は祭りの三日前に届けると約束したのに、祭りの当日になっても届かないのだ。
長二郎は神明町の通りまで出て見るが、女らしき人影は見えない。
歌川国久の絵が届かないようなことになると、『花の露娘六花撰』は『花の露娘五花撰』となってしまう。それではせっかくの仕掛けが、ぶちこわしとなる。
長二郎はいらいらしながら待っていた。
「もしや、花露屋の先生では?」
年寄りの男から声をかけられた。
「お前さんは?」
「歌川国久の使いの者です」
男は紙筒のようなものを持っていた。
「遅いではないか」
「申し訳ございません」
男は急いで来たのか、額に汗をかいている。
長二郎は、男から歌川国久の絵を受け取った。
「ところで、先日、お見えになった女の人は?」
「それが―」
男は言いかけて口をつぐむ。
「どうしたんです」
「産み月が近くなりまして」
「そうか、来られなくなったのか」
「へえ、それで、あっしが」
「そうだったのか」
長二郎も、ひょっとするとそうではないかと思っていた。
歌川国久の絵には『鏡を見る女』という題が付けられていた。
片肌脱いだ女が、鏡に映った自分の顔を見つめているという構図だ。
その女の顔に長二郎は見覚えがあるような気がした。
そうだ、汁粉屋で会ったときの女の表情にそっくりだった。
絵の左下には『花の露』の小壺が描かれ、「肌をうるおす薬ゆえ、常に用いれば顔によし」と、添え書きがあった。
長二郎は指物師に、『鏡を見る女』も木枠に入れるよう指示する。
これで競作『花の露娘六花撰』はすべて揃った。あとは飾る配置を考えるだけだ。
長二郎は六枚の絵を見比べていた。
『髪を洗う女』
『髪を梳く女』
『唇に紅を引く女』
『鏡を見る女』
『晴れ着に袖を通す女』
『夕涼みをする女』
女が装いを凝らす順に並べてみると、『鏡を見る女』は女の注文どおりの場所に落ち着いた。
花露屋の店先には甘酒を入れた釜が据えられた。
化粧水『花の露』を買った客に、甘酒が振る舞われるのだ。
花露屋は男っぷりのよい手代を店頭に立たせ、女客を呼び込もうと、手ぐすねを引いて待っている。
まだ早いせいか、訪れるのは生姜市を訪れる客ばかりだ。
生姜を背負った父親が、男の子の手を引いて通りかかる。子どもが甘酒を飲みたそうな顔をすると、父親は息子の手を取り、足早に帰っていった。
しばらくすると、三人連れの男が参道の露店を冷やかしながらやってきた。
「もし、美女えらびをなさいませんか」
花露屋の手代が男たちに声をかける。
「美女えらび?」
細面の男が聞き返した。
「化粧水の売り出しを祝って、ただいま、美女えらびをしております」
「どうやって、美女をえらぶんだ」
「さ、さ、こちらにどうぞ!」
手代は、『花の露娘六花撰』が飾られている場所に細面の男を連れて行く。どんぐり目をした男と、にきび面の男も付いてきた。
「この六枚の絵から、お好みの美女を一人選んでください」
「好みの女?」
どんぐり目の男が目を丸くする。
「どうやって選ぶんだ」
にきび面の男は、にやにやしている。
「どうぞ、これをお使いください」
手代は竹串を三人の男に一本ずつ渡す。
「それぞれの絵の前には、竹筒がございますので、美女と思われるところの竹筒に、竹串を入れてください」
「おもしれえじゃねェか」
にきび面の男は、竹串を『唇に紅を引く女』の竹筒に入れた。
「おいらは、この女だな」
細面の男は、歌川国久の『鏡を見る女』を選んだ。
「おれも、この女にしよう」
どんぐり目の男も『鏡を見る女』に入れる。
「それで、美女はいつ分かるんだ」
どんぐり目の男が手代に聞いた。
「祭りの最後の日に、一番の美女がわかります」
「それまで、お預けか」
「祭りの十一日間で、選んでいただくということになります」
「あと十日も先か!」
にきび面の男が「ちぇっ!」と舌を鳴らした。
「その日は女子衆も、お誘いになって、どうぞ、また、お越しください」
その言葉も聞かずに、三人の男は帰ってしまった。
芝居が跳ねると、境内は女たちで溢れた。見てきたばかりの芝居に興奮し、あちこちから女たちのお喋りや喚声が聞こえてくる。
女たちの行列が参道を下ってくると、花露屋の手代たちが一斉に呼び掛けた。
「本日、オランダ名方の化粧水の、売り出しにございます」
「化粧油の花の露ともども、化粧水の花の露も、ご贔屓のほど、よろしく、お願い申し上げます」
「お買い求めくださった方には、甘酒を振る舞わせていただいております」
「まずは、お試しください」
手代が、女の手に化粧水を垂らそうとした。すると女がいらないと手を引っ込めた。
女たちの気を惹こうと、男っぷりのよい手代が進み出た。
「さて、皆々様方、本日は六人の絵師による、美女くらべがございます」
男前の手代から美女くらべといわれ、女たちの足が止まる。
「さあさあ、こちらに、お越しください」
男前の手代は、女たちを『花の露娘六花撰』の前へと誘う。
「あっ、路考茶の着物!」
誰かが叫ぶと、女たちは『晴れ着に袖を通す女』に群がった。
女形の二代目瀬川路考が、芝居のなかで路考茶の着物柄を着用して評判になった。
「これは、吉弥結び!」
その声に女たちは『夕涼みをする女』の前に集まった。
女形の上村吉弥が芝居で、帯の両端を唐犬の耳のように、だらりと下げた結び方をしたことから吉弥結びと呼ばれた。
「皆さま、この絵の中から、これはと思う美女を一人、お選びください」
男前の手代が竹串を渡そうとしても、女たちは見向きもしない。
『花の露娘六花撰』に描かれた着物柄や、帯の結び方に興味を示し、美女えらびにはまったく関心がなかったのだ。
翌日から雨が降り、晴れたのは祭りの初日だけだった。
だらだら祭りを象徴するかのような長雨が降り続いた。
『花の露娘六花撰』は取り外され、美女えらびは尻切れとんぼとなった。
長二郎の目論見は外れ、惨憺たるものだった。
花露屋の主人からは「仕掛け倒れだ」と皮肉られた。