ぷう、それは江戸(下巻)

四、戯作を使っての売り弘め

三馬は、『蘭奢水』と『花の露』に対抗するため知恵を絞った。

そのひとつが、絵文字の馬猿印まさるじるしを三馬店の目印にすることだ。

文字が読めない人でも絵文字を見れば、ひと目で三馬店と分かるようにした。

つまり、ロゴ・マークを考えたのである。

もうひとつは、百五十文という大箱の『江戸の水』を出すことだ。

従って、百文の大箱は中箱となり、五十文の箱は小箱となる。

これで『江戸の水』は三種類となった。

それによって、量り売りは、大箱の詰め替えが百文、中箱の詰め替えが六十文、小箱の詰め替えは三十二文となる。

三馬は戯作者にして、商いのコツもよく心得ていた。

自分が書いた戯作を利用し、自家商品を売り広める巧みさは抜きん出ている。

三馬は執筆中の『浮世風呂』女中湯之遺漏の上巻で、婆さまとかみさんに『江戸の水』の効能を語らせる。


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婆さま「このごろはやる江戸の水とやら、白粉のよくのる薬を出す内でございませう」


かみさま「ハイ、さようでございます。私どもの娘なども、江戸の水がよいと申して、化粧の度につけますのさ。なる程ネ。顔のでき物などもなほりまして、白粉のうつりが綺麗でようございます」


婆さま「嫁などもつけますがネ。翌の朝、顔を洗った跡で、ちょいと紙で拭いますと、薄化粧でもいたしたやうに、きのうの白粉が出るそうでございます。いろいろ調法な事が出来ますよネヱ」

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さらに、その下巻では二十三、四と思われる二人の嫁さんのお喋りを通して、『江戸の水』が如何にすぐれた化粧水であるかを語らせる。


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おかべ「すべて、上方の女中は役者のまねをしたがると見えて、化粧下へはかほよ香という油を塗るとさ」


おいへ「江戸でも役者の化粧するのは、すき油を付けるぢやアねへかヱ」


おかべ「さうさ、其のかほよ香という物も、すき油の様なものさ」


おいへ「いやだのう、気味の悪い。それよりは三馬がとこの江戸の水をつけた方がさっぱりして、薄くも濃くも化粧がはげねえでいい


おかべ「それだから今一面に流行るはな」


おいへ「贋が出来たの」


おかべ「あれは水の色を似せたばかりで、天花粉を入れたのだッサ。それだから江戸の水とは付けて見て違ふはな」

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このところ、お杉は髪を梳くのが大儀で、お初に頼むことが多くなった。

この日も廻り髪結いを終えたお初は、三馬店に立ち寄り、お杉の髪を梳いていた。
「ああ、いい気持だわ!」

自分では手の届かない地肌に、お初が櫛を入れてくれると、お杉は頭の芯までほぐれてくるようだった。
「お杉さん、どこか加減が悪いの」

お初は、お杉の顔色がよくないのが気になった。
「少し疲れているだけですよ」

お初の手の動きに合わせるように、お杉は体をゆらしている。
「ずっと働きづめでしたからね」

お杉は店びらき以来、休むことなく働いてきた。
「わたしのことより、伯母さんの髪結床、どうなりました?」
「髪結床だなんて、そんな大げさなものではありませんよ」

お初も寄る年波には勝てず、廻り髪結いがきつくなったので、いま住んでいる長屋で、近所の人たちを相手に髪結いを始めようとしていた。
「大家さんとの折り合いは、つきました?」

髪結床の親方を通して、大家に話をつけてもらっているところだった。
「そろそろ、始められそうです」
「それはよかったですね」
「そうそう、先日、弁造さんが訪ねてくれましたよ」
「寄ってくれましたか」

お杉も、三馬には弁造のことを話さなかった。

弁造が松本屋の引札を配ったことは、お初とお杉だけの内緒だった。

この際、お初の力になってくれれば、三馬の怒りも解けるだろうと、お杉は弁造に教えてやったのだ。

弁造は仕事の合間を見ては、本所界わいを廻り、お初がすぐにも髪結いができるように、かみさんたちに触れまわっていた。


可楽は花露屋の件が気になってやって来た。

ところが、三馬の顔を見ると自分の弟子だった夢楽への怒りをぶちまける。
「まったく、夢楽の奴には頭にくるぜ!」

夢楽は勝手に朝寝房夢羅久と名を変えたため、可楽が怒って破門したのだ。
「夢楽さんがどうしたんだい」
「また、名を変えるらしい」
「ほう、夢楽さんも名を変えるのが好きだな」
「今度は笑語楼夢羅久だそうだ」

可楽から破門された夢楽は、いまは噺家の重鎮、烏亭焉馬の門下生となっている。なかなか抜け目のないところがある。
「あの野郎、改名の披露を兼ねて、烏亭先生の引きで咄の会を催すらしい」

可楽はどうやら、それが面白くなく、腹を立てているのだ。
「弟子には、お互い出し抜かれるな」

三馬は、花露屋の売り広めに長二郎がかかわっていることを話した。
「そうか、あの男が噛んでいるのか」

可楽は、眉毛の太い長二郎の顔を思い出した。
「あの野郎、三馬店の足を引っ張るようなことばかりしやがって」
「しかし、やるじゃねェか」

可楽は自分の弟子でないと冷静になれるようだ。
「それにしても自分から売り込むとは、いい度胸してやがる」
「なかなか見上げたもんだよ」

夢楽への怒りも忘れたように、可楽はけろっとしている。

だが、三馬の気持は複雑だ。

新しいことに先がける才は、誰にも負けぬという自負がある。

長二郎が美女くらべなる催しものを考えついたかと思うと、三馬は妬ましささえ覚え、内心忸怩たるものがあった。