二、老舗からも贋の水
お初は三馬店の売り上げを助けようと、髪結い先を訪れては『江戸の水』をすすめている。この日も客から預かった代金を届けにやって来て、お杉に渡した。
「あれ、庄三郎さんは?」
いつも店先にいる庄三郎の姿が見えない。
「京から文がきて、今朝、早くに京へ戻られました」
「そうだったの、さびしくなりましたね」
耳に馴染んだ上方言葉が聞けなくなり、庄三郞がよく座っていた場所は、ぽっかり穴が開いたようだ。
「そうそう、えらいことが」
お杉は、お初が来るのを待ち兼ねていたのだ。
「弁造さんが松本屋の引札を」
「配っていたというんでしょ」
「あら、伯母さん、どうして知ってるんですか」
「なんだか、告げ口をするようだったので」
お初は、弁造が中村座の前で五代目の声色をつかって、『蘭奢水』の口上を述べていたことを話した。
「ところで、お杉さんはどうしてそれを?」
「向かいの江戸櫻のおかみさんから聞きました」
「弁造さん、声がよくて口上がうまいから、すぐにばれてしまうんですよ。お杉さん、とらの助さんには」
「うちの人には話していません」
「そのほうがいいわ」
お初はそう言うと二階を見上げる。
「誰か来てるんですか」
「可楽さんが、お見えに」
二人の話し声が階下にまで聞こえてくる。
三馬は久しぶりに訪れた可楽を相手に、仲たがいしていた絵師の勝川春亭と和解し、胸のつかえが取れたのか喋りまくっている。
摺師の山本長兵衛が、三馬と春亭の間を取り持ってくれたのだ。
「よかったじゃねェか」
可楽は、春亭の悪口を耳にたこができるほど聞かされていた。
三馬が春亭を許す気になったのも、弟平八を亡くして少し気弱になっているのだろうか。そういえば以前ほど怒り散らすことが少なくなったようだ。
「おっ、そうだ」
春亭のことで可楽は言いそびれるところだった。
「花露屋を知ってるかい」
「芝神明宮の鬢付油屋だろう?」
芝神明宮といえば、江戸のお伊勢さんとも呼ばれている。
その門前で花露屋は、寛永の頃から伽羅油を商っている老舗だ。
「その花露屋から化粧水が売り出されるらしいんだ」
「何だって!」
三馬が声を荒げた。
役者店の松本屋に次いで、老舗の花露屋からも化粧水が売り出されるとあっては、贋が出るは本家の繁昌などと暢気なことを言ってはいられない。
「ところで、可楽さん、花露屋のことをどうして知ったんだい」
「三馬さんが口利きしてくれた、例の姪から聞いたんだ」
可楽の姪美津は、絵師の歌川国久のもとに弟子入りしていた。
「花露屋が新しく売り出す化粧水の売り広めに、絵師を選んでいるそうだ」
「絵師を?」
「六人の絵師に、それぞれ絵を頼むそうだ」
美津の師匠の歌川国久にも声が掛かったのだ。
「六人も選んでどうするんだい」
「美女を描かせるんだそうだ」
「美女?」
「可愛い小町娘が注文だそうだ」
「小町娘を描くことは、ご禁制に触れるんじゃねぇか」
「いや、どこの誰かは伏せるようだ。それと、ちょっとした趣向もあるらしい」
「どんな趣向だい」
「それが、わからねェんだ」
可楽は花露屋が六人の絵師に、それぞれ小町娘を描かせることしか知らなかった。
花露屋が化粧水を売り出すことは、お初も大坂屋の内儀から聞いてきた。
花露屋には胡桃の油でつくられた『花の露』という化粧油はあるが、化粧水がなかったため、化粧水を売り出すことにしたというのだ。
「それが、化粧油と同じ花の露というのだそうです」
「伯母さん、それは、ややこしいですね」
化粧油と化粧水が同じ名では混乱してしまうと、お杉がいった。
「いや、ひょっとすると賢いやり方かもしれんぞ」
そばで聞いていた三馬が言った。
「お前さん、どうして賢いんですか」
「化粧油の花の露、化粧水の花の露と、花の露を二度繰り返すことができるから、人々の心により深く刻むことができる」
すでに『花の露』という化粧油があるので、化粧水を売り出したことを広めればよいだけで、客は化粧油か、化粧水かを選べばよいというのだ。
「お客様には油っぽい方がよいか、さっぱりした方がよいか、尋ねればいいんですね」
お杉は店先で売るときのことを考える。
「さすが老舗だな」
花露屋は江戸市中に売弘所をいくつも持ち、商い上手といわれるだけのことはあると、三馬は思った。
数日後、板元の和泉屋源右衛門が三馬のもとにやって来た。
「三馬先生の弟子を騙っていたのは、確か、長二郎さんといいましたね」
「ああ、そいつがどうした?」
「花露屋の売り広めに噛んでいるようで」
「あの野郎が?」
「どうやら化粧水の売出しに、ひと役買っているらしいんです」
「どうしてまた」
「自ら売り込みにきたそうです」
長二郎は歯磨き粉の引札で自信をつけ、商人の求めに応じて知恵を絞っていた。
「長二郎さんの趣向で六人の絵師を選んでいるらしいですよ」
「あいつが、仕掛人だったのか」
仕掛人とはプロデューサーのことである。
三馬の腸は煮えくり返えっている。
自分に恨みでもあるかのように、岩田屋の歯磨き粉『梅清香』に続いて、今度は花露屋の化粧水『花の露』に手を貸しているというのだ。
―あいつ、いつからそんなことまで。
三馬の知らないうちに持ち前の押しの強さで、売り込む術を身につけていたのだ。
「絵師に小町娘を描かせるようです」
「あいつ、どんな趣向を持ち掛けたんだ?」
「新しく売り出す化粧水と絡めて、美女くらべをするそうです」
芝神明宮の祭りで絵を披露し、祭りにきた人たちに絵師たちが描いた絵の美女を選んでもらおうという催しだった。
つまり、イベントを企画していたのだ。
神明宮の祭りは十一日間も続くため、「だらだら祭り」と呼ばれる。
境内に生姜市が立つことから「生姜祭り」ともいわれていた。
門前には土産物などを売る露店が軒を連ね、参詣に訪れる人々でいつも賑わった。
「画題は、花の露娘六花撰だそうです」
「花の露娘六花撰か!」
三馬は思わず唸った。
六人の絵師が描く小町娘と化粧水、そこに美女えらびが加われば、趣向として面白いものになる。三馬には心中穏やかならざるものがあった。