十五、長二郎は表店へ
木々が芽吹き、行き交う人の流れも慌ただしくなり、町は活気に溢れている。
戯作者山東京伝は十年前に亡くなり、京橋のたもとに京伝店があったことを知る人も少なくなった。
三馬店は十四歳になった息子虎之助が、母お杉を手伝うようになっていた。
三馬の死後も『江戸の水』は女たちに愛用され、店の看板商品として売れ続けている。
長二郎は通塩町の表店に店を構えた。
手代も一人置くようになって、引札づくりだけではなく看板づくりにも乗り出していた。
土間の壁には足袋屋の看板が立て掛けられている。
その前で手代が、彫師から届いたばかりの傘屋の看板に磨きをかけている。
長二郎は、弁造が番傘を独楽のように廻しているのを見て、看板づくりを思いついたのだ。番傘そっくりの看板を軒先に吊せば、風で独楽のように廻り、ひと目で傘屋とわかると思ったからだ。
弁造に話すと、さっそく、照降町の傘屋から注文を取ってきた。
看板づくりが舞い込むようになって、仕事の幅が広がり、美津の出番も多くなった。
美津が絵筆を握る横で、十五歳になった由美が皿に顔料を溶いている。
近ごろは母親の代わりに絵を描くこともある。
由美も母に似て、涼やかな顔をした美人だった。
「どうした、出来たかい」
長二郎が二人に声をかける。
「もう少しよ」
美津が答えた。
「看板づくりは、お前たちの腕に掛かってるんだから」
長二郎は吊り看板になりそうな袋物屋や筆屋、ろうそく屋などの看板を二人に描かせていた。
「こんなのはどうかしら」
美津が描いたばかりの下絵を見せる。
「こいつは、お多福の顔か」
長二郎が素っ頓狂な声を上げると、由美が笑いころげる。
「さあ、お多福かしら?」
美津が、お多福といわれた額の中心から、両耳にかけて筆を入れると鼻緒になり、それが下駄屋の看板になった。
「こいつはいい、遠くからでも下駄屋だとわかる」
長二郎が喜んだ。
「よかったわね」
美津は娘と顔を見合わせる。
「こいつは、ひょっとすると」
長二郎が呟いた。
「おとっちゃん、どうしたの」
「うん、ちょっと考え事をしてたんだ」
長二郎は看板づくりが、三馬店の『江戸の水』のように商いの柱になるのではないかと、手応えを感じていたのだ。
「おとっちゃんに、見てほしいものがあるの」
「なんだい」
「引札を書いたんだけど」
「引札を?」
「ええ、おとっちゃんを真似て」
「すげえじゃねえか」
由美が引札文を書いたとあっては、読まずにはいられない。
「どれどれ、見せてごらん」
下絵を描いていた美津が手を止め、二人のやり取りに耳を傾けている。
「それで、何の引札文を書いたんだい」
「おとっちゃんの大好きな満月堂の月饅頭よ」
「こいつは驚いたな」
長二郎が初めて書いた引札文も満月堂の月饅頭だったからだ。
由美の引札には絵も添えられていた。木箱に入った月饅頭が、俯瞰でとらえられている。
月の鏡の満月に
食べて愛でたる満月堂の月饅頭
餡の甘さは言うに及ばず
御評判は月に倍して売れるほど美味し
なにとぞ、満月堂の月饅頭
ご贔屓、ご賞味の程、御願い申し上げます
長二郎が見入っていると、由美は心配そうな顔をする。
「おとっちゃん、駄目?」
「駄目なもんか、お前は、おっかさんの血を引いて絵はうまいが、文才もなかなかのもんだ。おとっちゃん以上だよ」
「ほんとう!」
由美の喜ぶ声に、美津は一家の幸せを感じていた。