十六、三馬店は小三馬に
三馬の死から七年後、お杉が亡くなった。
可楽も一年前に亡くなり、三馬店は新しい時代を迎えようとしている。
店を相続した虎之助は、二十二歳になると小三馬と改名した。
冷たい風が吹き、あとひと月もすれば木枯らしの季節だった。
小三馬が久しぶりに長二郎をたずねてきた。
母の死後、自分を助けてくれた長二郎を心から信頼していた。
「景物本を出したいと思うんですが」
長二郎に持ちかけた。
「なんの景物本です?」
「実は、江戸の水の」
「それじゃ改題して、また出すんですかい」
長二郎は、お杉に頼まれて三馬が書いた『江戸水幸噺』を内容は変えずに、表紙を『江戸水福話』と改題して出していた。
「いや、まったく別のものを」
「ほう、それはどんな?」
「おいらが書いてみようかと思うんです」
「どんな話を書くんですかい」
「書き上げたら目を通してください」
自信ありげにいった。
小三馬にも親譲りの商才と文才があった。
近ごろは商いのかたわら、小間物屋の大安売りの引札文を引き受けたり、『娘暦振袖始』や『喜怒哀楽堪忍袋』といった戯作も書いている。
三馬の商いと戯作の蛇づかいは、小三馬にも引き継がれていたのだ。
小三馬が書いた景物本は、三馬の『江戸水幸噺』とはまるで違い、小三馬自らが登場するといったものだった。
神田八丁堀に住む福助が捨て子を拾い
お福と名づけた娘は器量よしだが、一向にもらい手がない。
ここ、本町二丁目北側中ほど、白き長暖簾かけたる薬店
『江戸の水』は本家式亭三馬が伜とらの助
生まれてより、親のすねをかじる事、二十余年。
顔はひょっとこの面に似たるゆえ
ひょっとこ小三馬と去年の春、改名せり。
不学のくせに知った風をして
親の名を汚すことをなんとも思わず
好きが因果の戯作の道
毎春、恥を書きあらはす草双紙類
運よく売れても拙物なり。
どういふものだか、かの、お福は
「嫁にもらおう」「婿にならう」というものをうるさがり
小三馬が不男を慕いて
どうぞ、小三馬が店へ行きたいとの御意(中略)。
折しも不思議や、お福はたちまち姿を変じ
十二単衣に緋の袴、真面目な御多福観音女となり
いろいろな御託を上げ給ふ。
小三馬は、お得意だいじと身をつつしみ
薬種を吟味して奉れ!
「長二郎さん、どうですか」
小三馬は、長二郎の反応を気にしている。
「三馬先生とは違った味が出てますよ」
「そう言ってもらえると、うれしいな」
小三馬が書いた景物本は、三馬のような奇想天外な話ではない。
たわいない話を大まじめに取り上げ、自分を卑下しながらも『江戸の水』を売り広めようと懸命だ。商いに対する真摯な態度は父三馬以上かもしれないと、長二郎は思った。
「ところで表題は?」
「賑式亭福ばなしは、どうでしょう」
小三馬はすでに表題も考えていた。
「表紙には馬猿印を配して、戯作者の式亭三馬の店であることが目立つよう賑々しく仕上げてください」
「わかりやした」
小三馬は常に商い大事を考えている。自分の戯作や頼まれた引札にも馬猿印をちゃっかり書き込むなど、その商魂たくましさには、実は長二郎も感心していた。
『江戸の水』の景物本『賑式亭福ばなし』は、正月の初売りで客に配ることにした。
長二郎は、表紙に小三馬扮する福助を登場させる。
その背景に鯛を抱えた光源氏もどきの男と、馬猿印の羽子板を手にした、お福らしき娘が「おしろいのよくのる薬、江戸の水」と書かれた短冊を持つという構図だ。
絵は美津の希望で五渡亭国貞に依頼した。
「長二郎さん、ついでに双六もつくってくれませんか」
小三馬の注文で『賑式亭繁栄双六』をつくることになった。
振り出しは、もちろん『江戸の水』だ。
サイコロを振ると一枠ごとに、三馬店の商品が現れる。
『薄化粧』
『匂い袋』
『天女丸』
『御目洗い薬』などが並ぶ。
そして、にせの水という枠をもうけ、『江戸の水』のまがい物には気をつけるようにと、但し書きを入れるよう小三馬から注文が出る。
双六の上がりは、三馬店の正月風景の絵だった。
小三馬の商い大事はさらに続き、長二郎へ新たなる注文が出た。
「来年は三馬店が開店して二十五年です。皆が驚くような面白いことを考えてくれませんか」
「もう、そんなになりますか」
時が経つのは早いものだと、長二郎は今更ながら驚く。
「それでしたら、とっておきの催しが」
「どんな催しですか」
「それはまだ内緒ということに」
長二郎はもったいをつける。花露屋の〝美女くらべ〟の失敗があるので、慎重に策を練ってから話すことにしたのだ。
「ただ、少々、銭が掛かりますがいいですか」
「少しぐらいなら構いませんよ」
小三馬は太っ腹なところを見せる。三馬店の主人としての風格も出てきた。
三馬店の二十五周年を祝賀する催しが始まろうとしている。
西両国広小路には、特別仕立ての色半纏を羽織った若い娘たちが待機する。
娘たちは見世物小屋の軽業一座の者たちで、西両国広小路から本町二丁目の三馬店まで、『ご吹聴道中』の行列を繰り広げるのだ。
いまで言うところのストリート・パフォーマンスである。
人々が続々と集まってきた。
長二郎は眉をピクピクさせながら、娘たちに指示を与えている。
軽業一座の若い男前が二人、それぞれ化粧水『江戸の水』と、白粉『薄化粧』と書かれた馬猿印の幟を持っている。
その前に小三馬が立っている。
長二郎が合図の手を振ると、弁造の口上がはじまった。
さて、お立ち会いの皆々様!
式亭三馬店が、本町二丁目に店びらきをして
はや、二十五年の歳月が経ちました
これもひとえに、皆様方のご贔屓の賜と御礼申し上げます
本日は、それを祝しまして
ご吹聴道中の行列を
お目にかけたいと存じます
綺麗どころが繰り出す技に
どうか、皆様方、温かいご声援をもって
一行を迎えてくださいますよう
お願い申し上げます
薄紅色の半纏の娘たちと、若草色の半纏の娘たちが現れると、あちこちから拍手が湧き起こる。
『江戸の水』と『薄化粧』の幟を先頭に、娘たちが色別に二列に並ぶ。
弁造が扇子をかざし、
「これより本町二丁目、式亭三馬店へ向けて出立!」
と叫ぶと、娘たちも「出立!」と唱和する。
突然、薄紅色の半纏の娘たちと、若草色の半纏の娘たちが、それぞれ道の両側に分かれ、顔を見合わせたかと思うと、また幟の後ろにさっと並ぶ。
集まっていた人たちから歓声が上がる。
これから始まる『ご吹聴道中』の行列に、皆、興味津々だった。
弁造の後を、娘たちが幟を先頭に二列に並んで付いていく。
しばらく進むと弁造が振り返り、娘たちに呼びかける。
「おしろいのよくのる薬は?」
「三馬が店の江戸の水!」
娘たちが一斉に答えた。
次の瞬間、薄紅色の半纏の娘たちと、若草色の半纏の娘たちが幟とともに入れ替わる。
弁造が娘たちにまた呼びかける。
「ちょいと化粧の白粉は?」
「三馬が店の薄化粧!」
娘たちは手足を拡げ、それぞれ大回転をはじめる。
薄紅色と若草色が右に左に入れ替わり、くるくると人風車のようにまわっている。
見物客から拍手が起こった。
弁造と娘たちは声を掛け合いながら、止まっては大回転をし、声を掛け合っては、くるくると回転しながら、賑やかに派手やかに、本町通りへ向かって進む。
その後を追いかけるように野次馬が付いていく。
『ご吹聴道中』の行列が本町通りに入ると、小三馬は三馬店へと走った。
店先には緋毛氈を掛けた縁台が並び、御休み処がしつらえられ、甘酒を振る舞う支度も整っている。
たすき掛けの美津と由美の姿もあった。
三馬店の前は黒山の人だかりだ。
小三馬は満面の笑みを浮かべて、『ご吹聴道中』の一行を迎える。
その様子を長二郎は向かい側から眺め、
「うん、これぞ、ぷうの極みだァ!」
と、何度も頷いていた。
(了)