ぷう、それは江戸(下巻)

十四、三馬の死

『薄化粧』の引札が一向に摺り上がってこない。

長二郎が和泉屋へ催促に行こうとしたときだった。

三馬が亡くなったという知らせを、三馬店の手代が伝えに来て、長二郎は思わず羽織ったばかりの着物を取り落してしまった。

三馬の突然の死は、三馬との信頼関係をようやっと築けた長二郎に、深い悲しみと落胆を与えた。糸の切れた凧のように心もとない思いにとらわれる。これまでのことを考えると、後悔の念や自己嫌悪にも襲われる。

三馬からはまだまだ教えを乞うことがあった。

あの歯切れのよい言葉で叱咤激励してほしかった。

何よりも残念なことは『薄化粧』の売り広めを、もう見てもらうことができないことだ。


式亭三馬の辞世の句は―

善もせず、悪も作らず
死ぬる身は
地蔵笑わず、閻魔えんま叱らず


滑稽本の第一人者にして、商人としても成功を収めた式亭三馬、享年四十六歳だった。大それたこともせず、地道に生きてきた三馬らしい句だと長二郎は思った。

三馬店は跡継ぎの虎之助が十歳とまだ幼いが、お杉が店を取り仕切っていたので商いに支障はない。しかし、三馬店の売り広めとなると、長二郎の助けが必要だった。

お杉は『薄化粧』の売出しが迫っているのに、和泉屋から引札が届かないのを心配している。

長二郎は、三馬の葬式などで和泉屋へ行きそびれていた。


長二郎が催促に行くと、和泉屋源右衛門は謝るばかりで、さっぱり要領を得ない。
「どうして、こうも遅れるんですか」

長二郎は詰め寄る。
「三馬先生が亡くなられて、軽く考えているんじゃないでしょうね」
「滅相もございません」
「だったら、遅れているわけを聞かせてください」
「それが―」

源右衛門は口ごもり、なかなか理由を言はない。
「いったい、どういうことなんです」

長二郎から問いただされ、源右衛門がやっと口を開く。
「実は、待ったを掛けられまして」
「えっ、誰に掛けられたんです?」
「それは―」

源右衛門がまた口を閉ざす。
「聞かせてもらうまでは帰りませんよ」

長二郎は上がり框に座り込む。
「実は、改掛(あらためがかり)から」

源右衛門が話しはじめた。
『薄化粧』の引札は、これから摺師にまわそうというときに、改掛から待ったを掛けられたのだという。
「改掛というと?」
「浮世絵や草双紙などのお調べをする係りです」

つまり、出版物を検閲するところだ。

源右衛門によると、改掛は町名主が交替でつとめており、和泉屋のある鈴木町は和田源七が名主だった。
「ですが、どうして改掛の町名主が待ったをかけたんです」

長二郎は腑に落ちない。
「このことは、どうか内々に」

和田源七が和泉屋に浮世絵の改めに見えたとき、『薄化粧』の板木を見て、しばらく『薄化粧』の摺りを差し控えるようにと、言われたというのだ。
「納得が行かねえな」

長二郎は眉をつり上げ、強面こわもてに出た。
「改掛の機嫌を損ねますと、浮世絵や草双紙などの売り出しにも影響いたしますので」

源右衛門は言われるままに、『薄化粧』の摺りを遅らせたのだといった。
「引札にも改掛のお調べがあるんですかい」
「いえ、そういう話は」
「それじゃ、どうして待ったを掛けたんです」
「それは分かりません」

和泉屋源右衛門の話だけでは埒が明かない。

長二郎は町名主の和田源七に会って、直接、聞いてみることにした。


和田源七の屋敷を訪れると、玄関先で町人風の男が、しきりに何かを訴えていた。

応対しているのは、のっぺりした顔の男だった。

話の様子からして、町名主の和田源七のようだ。

首を横に振り、男の要求をはねつけている。

これ以上は無理と思ったのか、町人風の男は帰って行った。

長二郎が進み出た。
「お伺いしたきことがあり、罷り越しました」
「何用だ!」

のっぺりした顔には似合わぬ鋭い目をしている。

長二郎が引札の摺りが差し止められ、売出し日に間に合わず困っていることを訴えると、和田源七が怪訝な顔をした。
「和泉屋に頼んだ、三馬店の薄化粧の引札にございます」

長二郎が説明すると、そのことかと言った顔で和田源七が薄ら笑いを浮かべる。
「なにか、不都合なところがあるのでしょうか」
「不都合なところ?」

和田源七が逆に聞き返す。
「不都合な個所がございましたら、ぜひ、教えていただきたいと思います」

ところが、それには答えてくれない。
「引札文は、その方が書いたのか」
「いえ、式亭三馬先生が亡くなられる前に、書かれたものにございます」
「おお、そうか、式亭三馬は亡くなったのか、そうであったか・・・・摺りを差し止めさせたのは、引札にも改めが必要だという意見があるからだ」
「えっ、それでは引札にも、お改めが?」
「いや、そうではないが、しばらくの辛抱だ」

和田源七は不敵な笑いを浮かべ、訳のわからぬことを呟きながら頷いていた。


引札にもお上の改めが入るかもしれない。引札づくりを生業にする長二郎にとっては重大事だった。

そんなことになれば、お上から引札の文言に注文が入るだろう。お上の目が光っているかと思うと、書きたいと思うことも手控えてしまうことになる。

三馬先生が生きておられたら何というだろう。

きっと、お上の余計な口出しと、鋭い言葉を浴びせることだろう。

長二郎は真偽のほどを確かめてみるしかないと、引札を扱っているほかの板元をまわった。大店の引札を引き受けているという板元から話を聞くことができた。

その板元によると、引札の改めが俎上に載せられたことはあるが、決まったわけではないということだった。

長二郎が店に戻ると、和泉屋源右衛門が待っていた。
「改掛が、どうして待ったを掛けたのか、わかりました」
「そうか、それで?」
「実は、改掛の和田源七は、仙女香の坂本屋の主人だったんです」
「なんだって!」

長二郎は思わず絶句する。
「あの町名主が仙女香の坂本屋か!」

長二郎は驚きを通り越して呆れ返る。
「わたしも初めて知りました」

和田源七は、自分が坂本屋の主人であることを伏せていたというのだ。

『薄化粧』の摺りを遅らせたのは、坂本屋の『仙女香』のためだったのだ。

改掛という立場を利用した嫌がらせだったことに、長二郎は気づいた。
「商いの邪魔立てをしやがって」

あの不敵な笑いを思い出すと、長二郎は和田源七への怒りがこみ上げてきた。
「あの方は評判が、あまりよろしくないようで」

和田源七は歌舞伎や浄瑠璃の改掛もつとめており、その地位を利用して、名女形の瀬川菊之丞の俳名『仙女』を頂き、白粉に『仙女香』と名付けていた。

また、絵師に『仙女香』を描き込ませるなど強引なところもある。改掛が長いせいか、とかくの噂のある人だと、源右衛門はいうのだった。


その後、和田源七からの呼び出しはなく、和泉屋から『薄化粧』の引札も摺り上がってきた。

長二郎は、弁造に引札を配る場所と枚数を指示し、南伝馬町へ向かった。

坂本屋がどんな売り広めをしているのか、自分の目で確かめるためだ。

ちょうど店先で、手代が『仙女香』の引札を店先で配っているところだった。

長二郎は受け取った引札を見て、腰を抜かすほど驚いた。

なんと、三馬先生が名付けた白粉『薄化粧』の言葉が使われているではないか。


洗粉で磨きあげたる顔へ
仙女香をすりこみし薄化粧
殊さらに奥ゆかし


三馬店の『薄化粧』の邪魔立てをしただけではなく、「薄化粧」という言葉まで使っている。とはいっても、「薄化粧」は普通に使われている言葉だ。文句を付けることはできない。ただ和田源七が、三馬店の『薄化粧』の引札を和泉屋で見ていることは間違いないのだ。和田源七のあざとさに、長二郎は地団駄踏んで悔しがった。