ぷう、それは江戸(下巻)

十三、三馬の老入おいれ

突然、長二郎は三馬から話があると呼ばれた。
「実は、頼みてェことがあるんだ」

三馬はいつになく改まっている。
「なんでしょう」
「引札をつくってほしいんだ」
「どちらの引札ですか」
「三馬店のだ」
「あっしに?」

三馬店の引札と聞いて、長二郎は驚いた。
「薄化粧の引札づくりと、売り広めを頼みてぇんだ」

三馬店が売り出すことにした白粉『薄化粧』のことだった。

庄三郎の助言に従って、女たちが白粉を大量に使わないように、三馬は『薄化粧』と名付けた。
「それは光栄の至りで、ご期待に添えるよう頑張らせてもらいます」

長二郎は、三馬店からの初めての依頼に緊張する。

三馬から引札の指南を受けたにもかかわらず、三馬店の商売敵の引札を書いたり、売り広めの手伝いをしてしまった。〝ぷう〟の舌禍では、お上に口添えまでしてくれた。

美津と引札づくりを生業にしてからは、知り合いの商人に口利きまでしてくれたのだ。そうしたことを思い出すと、長二郎は感無量だった。
「引札の摺りは、鈴木町の和泉屋に頼んでくれ」

これまでの付き合いもあるので、和泉屋源右衛門に出してくれというのが、三馬からの注文だった。
「これが、白粉、薄化粧の引札文だ」

やはり引札文となると人任せにはできず、三馬は自ら筆を執った。


厚化粧を嫌ひ給ふ御方
薄化粧が婀娜あだでよいと
ちょいと化粧けはひて口紅を濃くなさるが当世風也
又は四十以上の御女中さま方
けばけばしく化粧するを恥たまふ御方など
薄化粧、きハめてよし
何となく、つやを出して奥ゆかしく
きれいになる御顔の薬也


長二郎が店に戻ると弁造がきていた。

弁造は引札配りの繋ぎを、長二郎のところに置き、その取り次ぎを美津がしている。

神田旅籠町の蕎麦屋からの依頼を、美津が弁造に伝えているところだった。
「配る日付と枚数は、書き留めておきましたから」
「いつも、すまねえな」

美津から書き付けを受け取ると弁造がいった。
「通油町の鶴屋に、国貞の新しい錦絵が貼り出されていやしたよ」

美津は絵師になることはあきらめても、五渡亭国貞(二世歌川豊国)の錦絵が売り出されると買い求めていた。

弁造はそれを知っていたので、絵双紙屋の前を通るときは注意していたのだ。
「美津、買いに行ってきたらどうだ」

長二郎が言葉をかける。
「あとで、いいです」
「雨が降りそうだから、その前に、ひとっぱしり行ってくるといい」

長二郎は、美津が絵を描いたり、店番をしたり、飯をつくったりと、何役もこなしてくれるのを感謝している。
「それじゃ、お言葉に甘えて」

美津は空を見上げてから番傘をつかむと出かけて行った。

美津が出かけると、すぐに雨が降ってきた。
「やっぱし、雨になったか」

弁造は用心のために持ってきた番傘をくるくると廻している。

長二郎は、番傘が独楽のように廻る様子をじっと見詰めていた。
「それじゃ、おいらはこれで」

弁造が帰って行った。

しばらくして美津が戻ると、雨は本降りになった。
「お前さん、見て!」

美津が持ち帰った絵に、長二郎が驚きの声を上げる。
「お前が描いた、鏡を見る女と同じでは?」

国貞の『今風化粧鏡』は、手鏡に写る美女の顔が大胆な構図で描かれていた。
「似て非なるものよ」

美津はそう言うと土間の壁を見る。

そこに貼られているのは『花の露娘六花撰』の一枚、『鏡を見る女』だった。

当時の長二郎は、美津が師匠の代作をしたことは知らなかった。

美津によく似た女が描かれた『鏡を見る女』が、雨で色落ちするのが忍びなく、長二郎が密かに持ち帰っていたのだ。

美津は『今風化粧鏡』を食い入るように見ている。
「あらっ、これは?」

手鏡の後ろに、『美麗仙女香』と書かれた袋があるのに気づいた。
「白粉の仙女香だわ」

白粉と聞いて長二郎が身を乗り出した。
「どこの白粉だい」
「南伝馬町の坂本屋から売り出されている評判の仙女香よ」
「仙女香というのか」

長二郎は、三馬から白粉『薄化粧』の引札づくりを頼まれたことを美津に話す。
「すごいだろう!」

自分たちの仕事が三馬に認められたのだといった。
「しかし、喜んでばかりはいられないな」

長二郎は白粉『仙女香』の存在を知って、三馬の気持を初めて理解することができた。

三馬店の『江戸の水』に対抗するように、自分が『花の露』に肩入れしたことが、三馬の神経をどれほど逆なでしたことか、いまは申し訳なく思っている。
「お前さん、薄化粧の引札は、ここ一番と気張って、いいものをつくりましょうよ」

美津はやる気十分だ。
「それじゃ、この清書を頼む」

三馬から預かった『薄化粧』の引札文を渡す。

三馬の恩に報いるためにも、『薄化粧』の売り出しには間に合わせなければと、長二郎は思った。