ぷう、それは江戸(下巻)

十二、三馬店が本町で再開

三馬店の再開を待ちかねていた人たちが次々とやってくる。
「江戸の水が、もう買えないんじゃないかと心配したわ」

若い女が空のビードロの大瓶を抱えて訪れた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。これまで通り、ご贔屓にしてくださいませ」

お杉は何度も頭を下げている。

三馬店は活気に溢れ、以前にも増しての繁昌ぶりだった。

京から庄三郎がやってきたのはそんなときだ。少しでも早く『延寿丹』を届けようと、馬に乗せて運んできた。
「わざわざ、お越しいただき有り難うございます」

三馬が礼を述べると、番頭の徳次郎はさっそく、関東各地の売薬店に『延寿丹』を送る手配をする。
「皆さんの元気な、お顔を拝見して、ほんまに安堵しました」

庄三郎が、徳次郎の荷の手配を手伝おうとすると三馬が言った。
「お疲れでしょう。ごゆっくり休んでください」

庄三郎は、三馬の膝に乗っている虎之助に気づいた。
「おいくつに、なりはります」
「もうじき、五歳に、こら、おじさんに挨拶せぬか」

父親にいわれて、虎之助がぴょこんと頭を下げた。
「わては、六年ぶりの江戸ということになるんどすな」

庄三郎は、三馬店が同じ本町通りに再開し、虎之助という後継者が誕生したことに感慨もひとしおだった。
「ところで、庄三郎さん、そろそろ、白粉を扱ってみようかと考えているんですが」

三馬は『江戸の水』を「おしろいのよくのる薬」と改めたので、白粉も売り出して、三馬店のもう一つの柱にしたいと思っている。

京伝を意識する三馬にとって、白粉を出すことは悲願でもあった。
「白粉ですか」

そう言うと庄三郎は言い淀んだ。

話すべきかどうか迷っている。しかし、黙っているわけにもいかない。やはり話しておくべきだと庄三郎は思った。
「心配あらへんと思いますが」

そう前置きしてから、大坂の道修町で小耳に挟んだことを話す。

歌舞伎役者や遊女たちは、白粉を厚く塗るせいか、頭痛持ちが多いという。真偽のほどはわからないが、血気が失せたり、歯ぐきが変色したりする者がいると、囁かれているの だという。
「そいつは、えらいことだ」
「噂ですので、はっきりしたことは申せませんが」

庄三郎は白粉を大量に使う人に、そうした症状が見られるのが気がかりだった。
「以前、白粉にはピンからキリまであると言ってましたが」
「白粉の歴史は古いんどす」

庄三郎の話によると持統天皇(六八七〜六九六)の頃、唐の国から持ち帰った水銀を顔料に作られたのが白粉の最初だという。

その後、伊勢の丹生村から水銀が産出され、水銀を原料にした伊勢白粉がつくられるようになったというのだ。伊勢白粉は、きらきらとして透明感があるので高貴な女性たちに愛用され、御所白粉とも呼ばれた。

ところが、白粉を求める人が増えて水銀が足りなくなり、明国から鉛を精製する技術を習得し、鉛白粉がつくられた。それが京白粉になったというのだ。
「白粉の主な材料は、水銀と鉛の二種類どす。安直なものには白土や穀粉、貝殻を焼いてつくったものが入っていやはります」
「京伝店で売っている、玉屋の白牡丹はどうなんですか?」
「鉛白粉どす、いまはほとんど鉛白粉になってます」
「そうなると、少し考えなくちゃいけねェな」
「そやさかい、ぎょうさん使わんようにしやはるのが、ええと思います」
「そうですな」

三馬はそう言うと、苦しそうに肩で息をする。
「どない、しやはりました」
「ちょいと、疲れて・・・・」
「火事のあとの心労と違いまっか」
「そうかもしれませんな、しかし、商人は休んではいられませんからね」

三馬は口もとだけで笑った。


三馬が訪ねたとき、お良は床に伏せっていた。

神経痛が悪化していたのだ。三馬が寝ているようにすすめると、お良は持病だから気にしないでくださいと起き上がってきた。
「そちらは、災難でしたね」

お良は、三馬が火事に見舞われたことを気づかってくれる。
「おかげさまで、店はすぐに再開することができました」
「それは、ようございました。どうなるかと心配してましたよ」

久しぶりに聞く明るい話題に、お良は顔をほころばせる。
「これは、いつもの、お約束のもので」

三馬が、『江戸の水』の儲けの一部を差し出すと、
「店の再開で、お金は入り用でしょう」

お良は受け取ろうとしない。
「江戸の水の売り上げは前にも増して好調で、これも、おっかさまのおかげでございます」

三馬は約束どおり、『江戸の水』の儲けの一部を半年ごとに、お良に渡していた。
「もう十分、頂戴しました」
「いえ、取り決めたことですから」
「あとは、そちらの儲けということに」
「そうはいきません」
「いいんですよ、もう、おしまいということにしてください」
「しかし、それでは」
「これ以上いただいても、あの世に持っていけるわけではありませんから、おまえさまは娘が亡くなってからも、わたしたち夫婦を大事に思ってくれました」

亡き夫の十三回忌の法要を三馬がしてくれたことを、お良は今でも感謝していた。


それから五ヵ月後に、お良が亡くなった。

『江戸の水』の儲けは、もう持ってくる必要はないといってくれたことが、お良の遺言となってしまった。

その翌年、伯母お初も亡くなった。

客の髪を結っているときに倒れ、意識は回復することなく、あの世に旅立ってしまったのだ。

三馬は母と慕う人を相次いで失い、二人の死は三馬自身の死への思いを深くし、来し方を振り返るようになった。

三馬店で扱う商品は百を越える。化粧水といえば、三馬店の『江戸の水』といわれるようになっていた。
「入れものご持参あらば、割よくいたし候」と量り売りにも力を入れたため、三馬店は「徳利往来、店いとまなし」などといわれている。

三馬の書いた戯作は百二十冊を越えた。

商い、戯作の蛇づかい、よくぞ、ここまできたものだと自画自賛したいところだ。

ところが戯作者仲間には、「三馬の描く世界は狭く、風変わりで軽薄」と辛辣なことをいう者もいる。言いたい奴には言わせておけばいいと、三馬は思っている。

かっては、三日三晩で草双紙一本を書き上げたこともある。

いまはそんな体力も意欲もない。

持病の通風がまた暴れ出し、歩くこともままならぬ日々が続いている。

足繁く通ってきた弟子たちも、いまは思い出したように訪れるだけだ。