十一、長二郎が裏店で独立
日本橋橘町の裏店に「引札御誂仕候」の看板が掛かっている。
裏店といっても表通りから一歩入っているだけだ。
店のなかでは長二郎が、しかつめらしい顔つきで何やら書き物をしている。
書いているのは引札文だった。
松島屋の板前の佐平次が、本所松倉町に店を構えることになり、その開店祝いに贈る引札をつくっていたのだ。
佐平次は、三馬への手土産の料理をつくってくれた板前だ。ありきたりの引札ではなく、一年を通して使えるようにと、長二郎は工夫を凝らしている。
はる花見、なつ夕涼み、あき月見
冬は、ほかほか温か鍋
四季折々のそうざい用意仕り候
皆々方さまには
入れ物ご持参下さいますよう
御願い申し上げます
長二郎は書き終えると奥に向かって声をかける。
「おい、手はすいたか」
「はい、ただいま」
居間から現れたのは美津だった。
長二郎と美津は、可楽の計らいで所帯を持つことができたのだ。
絵師の歌川国久と美津との間に生まれた由美は、長二郎が自分の娘として育てている。美津は得意の絵を描き、長二郎が引札文を書き、二人は引札づくりを生業にしていた。
「紙の大きさは、半紙四つ切りで頼む」
長二郎が書き上げた引札文は、美津の綺麗な女文字で清書する。
美津が書いた文字は見栄えがよく、引札の感じをつかむことができるからだ。
「ところで、虎之助はどうしてる」
「仲良く、遊んでいますよ」
三馬の息子虎之助が、由美と絵を描いて遊んでいる。
お杉は店の再開で忙しく、伯母お初が腰を痛めていたので、長二郎夫婦に虎之助を預かってもらっていた。
「虎ちゃん、こんなふうに持つのよ」
由美は姉さん風を吹かして、虎之助に筆の持ち方を教えている。
「こう?」
虎之助は由美の真似をする。
美津が受け取った引札文を書き写そうとすると、長二郎から注文が出る。
「文字は綺麗に並べずに、散らし書きにしてくれ」
美津は文字の大きさを変えたり、文字の配置にも工夫を凝らす。
「こんな感じで、どうかしら」
「ああ、いいが、右下に絵がほしいな」
「どんな絵が、いいかしら」
「重箱はどうかな」
長二郎の注文通り、美津は重箱を描き、そのなかに料理らしきものも描き入れる。
「いいじゃないか」
長二郎が満足そうに頷くと、
「それじゃ、薄紙に書いてもいいですか」
「ああ、頼む!」
美津は板木に貼り付ける薄紙に、文字と絵を書きはじめる。
本来は筆工や画工がする仕事だが、すぐに彫りに入ってもらえるようにと、美津は自分で書いている。手間賃もはぶけ、工程も少なくなるので、それだけ早く仕上げることができるのだ。
「おとっちゃん、これにかいてもいい」
由美は紙が無くなり、長二郎の使い残した紙を指さした。
「ああ、いいよ」
長二郎は紙を渡しながら由美に聞く。
「何を描くんだい?」
「おとっちゃんの顔だよ」
「おとっちゃんの顔を描いてくれるのか」
「虎ちゃんも描くのよ」
虎之助も父三馬の顔を描きはじめる。
「由美、おとっちゃんの邪魔をしちゃ駄目よ」
美津が心配して声をかける。
「いいんだよ」
「すいません」
長二郎が由美をわが子として育ててくれることに、美津は感謝している。
「あやまってばかりいると、由美が変に思うじゃねぇか」
由美は、長二郎を実の父親だと思っている。
「おとっちゃん、見て!」
由美も絵を描くのが好きだった。
「おお、そっくりだ!」
長二郎の眉の特徴をよくとらえている。
虎之助は人の顔がなかなか描けない。
「虎ちゃん、こうよ」
由美が、三馬の顔らしきものを描いた。