一、役者店から贋の水
恒例の弥生狂言の季節がやってきた。
芝居小屋では宿下がりの御女中たちにあわせた演目が上演される。
女忠臣蔵といわれる『加賀見山旧錦絵』、伊達騒動を描いた『伽羅先代萩』などの御殿え物が御女中たちに好まれた。
お初も弥生狂言を心待ちにしている一人だった。
この日、中村座で上演される『加賀見山旧錦絵』には、自分と同じ名の「お初」という侍女が登場する。お初の大好きな芝居だ。
御家乗っ取りを企む局岩藤が、中臈尾上に密書を見られたことから、尾上に嫌がらせをする草履打ちの場となった。
それが終わると、お初の見ている目の前に、突然、年増の御殿女中が現れた。
狂言なかば、お邪魔、お叱りも顧みず
これより口上をもって申し上げ奉ります
まずは、当芝居ご贔屓とござりまして
早朝よりかように御賑々しく
ご見物に御来駕なし下さりまする段
ありがたい仕合わせに存知奉りまする
そこに若い腰元が小壺をささげ持つようにして、しずしずと現れる。
御殿女中は小壺を受け取り、蓋を開けると手のひらに液を落とし、顔に付ける仕草をする。そして客席に向かって微笑むと、
此度、ご披露仕りまするは
日本橋住吉町の松本幸四郎が見世(店)
松本屋にて売り出すことと相成りました
お顔のくすり、蘭奢水にございまする
御殿女中は、美しくなったと言わんばかりに科をつくる。
色の白きは七難隠す
ほんに、お顔のくすり
蘭奢水のおかげにござりまする
売り出す一方の蘭奢水
住吉に来て、松本と聞けば
直に知れますハ
客席から女たちのどよめきが起こる。
幕間を利用して新製品をご吹聴するのは、現代のプレステージ広告である。
御女中たちにとって役者はあこがれの人だ。
五代目松本幸四郎の役者店松本屋から、お顔のくすりが売り出されるとあっては無関心ではいられない。
どのようなお顔のくすりかと、皆、身を乗り出している。
役者店はタレントショップのことで、役者は名義貸しをしているだけだ。実際に松本屋を営むのは、鬢付油屋の岩戸香だ。
お初ははっと気づいた。
中村座の前で娘たちに聞きまわり、当たりを付けていたのは岩戸香の者だったのだ。
お初は芝居見物どころではない。
三馬たちに早く知らせなくては・・・・そうは思っても木戸銭を払っているのだ。
好きな芝居を見ないで帰るのは口惜しい。
そうこうしているうちに次の場がはじまった。
中臈尾上が手紙をしたため、侍女お初に親元へ届けてくれと頼み自害してしまう。
そして侍女お初が、主人尾上の敵を討つという見せ場になった。
お初は、侍女お初が局岩藤をやっつけるところにくると、自分が成敗するような気持になる。いつも楽しみにしている場面だ。
ところが気がつくと、侍女お初が主人のあだ討ちを終えていた。
芝居が跳ねると、お初は急いで外に出た。
すると、中村座の向かい側から口上が聞こえてきた。
家名は松本、紋 銀杏
看板彫る成り岩戸香
本日、住吉町の松本屋にて
蘭奢水を売り出し仕り候
なにを隠そう、これなる、お顔のくすり
オランダ渡りの名方による化粧水に御座います
ただいま、蘭奢水を一度に三箱
お買い求め下さったお方には
五代目松本幸四郎名入りの扇子を進呈仕り候
ぜひ、この機会に、お買い求め遊ばされますよう
御願い申し上げます
この節回しは五代目松本幸四郎?
いや、五代目の声色をつかっているだけだ。
鼻高といわれる幸四郎を真似て、白粉を鼻筋にたっぷりと引き、化粧で顔を隠しているつもりだろうが、まぎれもなく弁造の声だ。
―なんということを・・・・。
岩田屋の歯磨き粉で懲りているはずなのに、また商売敵に加担して・・・・これでは三馬の気持を逆撫でするばかりだ。
お初は、男が中村座の前で娘たちに顔を洗った後のことをたずねていたことを思い出し、近くにいた娘から弁造の配った『蘭奢水』の引札を分けてもらうと、三馬店へと走った。
お初から引札を受け取ると三馬は唸った。
「うむ、弥生狂言で売り広めとは、味なことをする」
「何ということを!」
お杉も驚いている。
三馬は然もありなんといった顔をしている。
三馬は『戯場粋言幕之外』という滑稽本を書いていたので、弥生狂言が御女中たちで満席になることは知っていた。
「しかし、役者店とは手強い相手だな」
幕前や狂言なかばに、芝居の本筋とは関係なく、煙草売りや扇子売りに扮した役者が、煙草や扇子の売り広めをすることがよくあるからだ。
享保三年(一七一八)、森田座の正月興行で、二代目市川団十郎が「若緑勢曽我」で外郎売りに扮し、相州小田原の虎屋藤右衛門の妙薬『透頂香』の効能を述べる下りが、歌舞伎十八番になったくらいだ。
「役者を贔屓にするのは、御女中だけではねえからな」
烏亭焉馬は、五代目市川団十郎を贔屓にし、三升連という集まりをつくったり、団十郎煎餅の引札文を書いて応援していた。フアンクラブのようなものだ。
「なんといっても、役者には贔屓客が多い」
三馬は頭を抱える。
宝暦(一七五一〜一七六三)の頃には役者人気を利用し、鬢付油や白粉、匂い袋などを売る役者店が十八軒ほどもあった。
「役者名や紋所の付いたものは、娘たちに人気ですからね」
お初は引札を手にした娘たちが、松本屋へ向かおうとするのを見ていた。
「でも、蘭奢水とは難しい名ですね。聞いただけでは、どんな字を書くのか、わかりませんよ」
お杉が言った。
「おめえも一端の口をきくじゃねェか」
「そんなことより、贋の水の正体がわかったんですから、何か手を打ってくださいよ」
「新しもん好きは江戸っ子の慣、初売りが収まれば、松本屋へ流れた客もこっちに戻ってくるさ」
「松本屋と張り合うには香薬水の量を増やして、もっと香りをよくしたらどうかしら」
お初はまだ香薬水にこだわっている。
「それは、ちょっと」
お杉が言いかけると、庄三郎が驚くようなことをいった。
「どうでっしゃろ、この際、倍の大きさのビードロを出しはったら」
すでに庄三郎の考えで、空のビードロを持参した客に、五十文の『江戸の水』を三十二文に量り売りしている。
「倍となると百文ですね。百文の大瓶になると、詰め替えはいくらにしますか」
お杉も真剣だ。
「詰め替えなら、六十文ということに」
庄三郎はビードロの節約になるので、お初がいうように香薬水の量を増やしても儲けは出るといった。
「なるほど、わかりました」
三馬はあっさり納得し、百文の大瓶を出すことに決めた。
「そうなると庄三郎さん、もうしばらく、江戸に留まっていただけます?」
お杉がいった。
「あと二、三日でしたら、わては、かましまへん」
庄三郎も江戸での新しい仕事に意気を感じていた。
「それは、有り難いな」
庄三郎が江戸に来て四か月が経っている。京の田中宗悦との約束もあり、あまり引き留めることはできないと、三馬は思った。
「伯母さん、そういうことで、よろしいですね」
香薬水の量を増やすことになり、お初の面子も立つと、お杉はほっとした。
ところが、お初は先ほどから黙りこくっている。
「どうかしましたか」
お杉が心配する。
「いえ」
お初は首を振り、三馬の顔をちらっと見た。
実は、弁造のことを考えていたのだ。弁造が松本屋の引札を配っていたことを、三馬たちに話すべきかどうか迷っていた。
話すきっかけを逃してしまったので、お初はいましばらく、自分の胸に収めておくことにした。