九、女房の心の傷は癒えず
お杉は燃えさかる炎の中で叫んでいた。
自分を呼ぶ声は聞こえるのだが、相手の姿が見えない。
助けを求めようとしても体が思うように動かない。
お杉は自分の悲鳴で目を覚ました。
冬だというのに首のまわりには汗をぐっしょりかいている。
―ああ、夢でよかった!
大火から四年が経つのに、猛火の中を逃げまわった恐怖がいまも夢に現れるのだ。
そのときの恐怖は記憶から消え去ることがなかった。半鐘の音が聞えると、お杉はじっとしていることができず、いまでも家を飛び出そうとしてしまう。
夢見が悪かったせいか、朝になっても頭が重く、憂鬱な気分が続いている。
こめかみのあたりを揉んでいると、板元の亀屋からの使いが見えた。
「三馬先生にお渡しするようにと、主人から言いつかってきました」
使いの者から米袋を受け取ると、お杉は二階に声をかけた。
「お前さん、亀屋さんから届きましたよ」
「何が届いた?」
「お米です」
お杉がぶっきらぼうに答える。
「なんだ米か、それにしても摺りが上がってねェのに早えな」
亀屋紀左衛門は草双紙の作料として、早々に米を届けてきたのだ。
勘定高い亀屋のことだから、米相場が下がっているので米で渡したほうが安くすむと考えたのだろうと、三馬は思った。
「作料は、やはり銭がいいな」
「わたしは、お米の方が大助かりですよ!」
お金でもらうと三馬の飲み代に消えてしまうからだ。
「ところで、お前さん、江戸の水の引札はどうなりました?」
「ちょうど見せようと思っていたところだ」
「出来上がったんですね」
お杉の憂鬱な顔が晴れやかになった。
三馬は書き上げたばかりの『江戸の水』の引札文の半紙を持って、そろそろと階段を下りてきた。
足の親指の付け根が赤く腫れ、夜になると激痛が走り、このところ寝不足が続いている。
お杉は『江戸の水』の引札文を受け取ると、すぐに読みはじめる。
おしろいのはげぬ薬
にきびの大妙薬『江戸の水』は
ひび、しもやけ、御顔のできもの一切によし
肌をきめこまやかにして艶を出す
夏冬ともにはげず
おしろいのうつり悪しき御顔によくのり
はげざる事、請け合いなり
「どうだ?」
三馬を無視するかのように、お杉は何度も読み返している。
「気に入らねえところが、あるのか」
「そんな、おおそれたこと」
「じゃあ、なんなんだ」
三馬が語気を荒げる。
「ちと、大袈裟ではないかと」
お杉が恐る恐るいった。
「何が大袈裟なんだ」
三馬は苛立ちの声を上げる。
「はげざる事を、請け合っちゃって、いいんでしょうか?」
「江戸の水を使えば、白粉がはげないと、おめえは言いたかったんだろう」
「そうですが」
「それじゃ、いいじゃねェか」
「はげにくい、としたほうが」
「お歯黒の、るりの露はどうなんだ」
「三日に一度は塗ってます」
「おはぐろのはげぬ薬といっても、はげる事を承知で皆、使っているんだろう」
「ええ、でも」
「でもも、くそもあるか、こういうことは言い切った方がいいんだ。中途半端な言いまわしでは伝わりにくいからな」
三馬に押し切られると、お杉は何もいえない。
「それより、化粧水は夏だけのものではねェだろう」
「もちろん、冬も使います」
「そう思ったから、夏冬ともに、はげずとした」
「よく、気がついてくれました」
「夏冬、売れなくては困るからな」
三馬は自分が店主だということを、お杉に主張したかったのだ。
「ところで、引札配りは、弁造さんに頼むんでしょう?」
「そいつは、どうかな」
「あら、頼まないんですか」
「思案中だ」
「店びらきのとき、弁造さんの評判、良かったのに」
「評判がよければ、いいってもんではねぇ!」
苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。
三馬は、長二郎が自分の直弟子を名乗り、弁造がそれに加担していることを弟子の一人から聞いていた。
「長二郎さんに頼まれて、弁造さん、断ることができなかったんですよ」
お杉は弁造に好意的だった。
「悪いのは、もちろん、長二郎だ。あの野郎、ちょっとばかり指南してやっただけで、直弟子を名乗るとは不届き千万な奴だ!」
体調の悪さもあって、三馬は怒りっぽくなっている。
弟子から聞いたときは、二人とも呼びつけて怒鳴り散らしてやろうかと思ったが、足が痛くてそんな余力はなかった。
怒りを爆発させれば、気持が掻き乱され、何も書くことが出来なくなってしまう。
それより、いま抱えている戯作を仕上げるのが先だと、三馬は思いとどまっていた。
「江戸の水の引札は、鈴木町の和泉屋に頼むことにする」
和泉屋は、景物本や引札などの細いものも扱う板元だ。
「引札の配りは?」
「和泉屋は若い衆を雇って、近ごろは引札を配る仕事も手がけているんだ」
和泉屋源右衛門に引札の摺りを話したところ、自分のところに任せてくれたら江戸市中の銭湯や髪結床に引札を貼ってみせるといった。
江戸市中と聞いて三馬が興味を示すと、源右衛門は小間物屋や呉服屋にも伝手があるといった。
武家屋敷に出入りする番頭や手代たちから、『江戸の水』の引札を御女中たちに手渡すことができると豪語したのだ。
「御女中たちに手渡せるんだぞ」
「武家屋敷への奉公は、町娘のあこがれですからね」
武家屋敷で行儀作法を身につけると娘に箔が付き、玉の輿も夢ではないと親たちが銭湯で話しているのを、お杉は聞いたことがある。
「御女中たちが江戸の水を使えば、町娘も競って使うようになりますよ」
「そいつは、願ったり叶ったりだ」
三馬はそう言うと足をさすっている。
「お前さん、足、まだ痛むんですか」
三馬が階段を這うようにして上がるのを、お杉は何度か見ている。
「ときどき、痛みが走るんだ」
「だったら、お酒は控えたほうが」
「バカ言え、そう易々と止められるか」
三馬は人から言われると、向きになるところがあった。
分かってはいても、やめられないのが、酒飲みのさもしいところでもある。
足が痛むのは酒のせいかもしれないことは三馬も分かっているが、酒を簡単に断つことはできない。酒を飲むと頭がほぐれ、よく眠ることができる。悩みも憂さも酒が洗い流してくれるのだ。
そうした最中に書き上げたのが、三馬自身の腹の中を見せるといった趣向の『腹之内戯作種本』、浄瑠璃から題材を取った『梅川忠兵衛』、芝居小屋の様子を描いた『客者評判記』などだった。
少し病んでいると頭が冴えて、追い立てられるように筆が捗るのだ。
いまは『浮世風呂』女中湯之遺漏の執筆に入っている。