ぷう、それは江戸(上巻)

十、歯の抜け難い歯磨き

長二郎のもとに引札書きの注文は、どこからもこなかった。

それでもめげることなく、長二郎は次なる手を考える。

浅草寺の境内で曲独楽きよくごまをしている香具師やしを雇い、人々が集まって来たところで〝ぷう〟を広めようとする。しかし、他人の芸に縋ったところで、うまくいくはずもなく、曲独楽が終われば、蜘蛛の子を散らすように人々がいなくなってしまった。

長二郎は人々を呼び戻そうと〝ぷう〟を連発するが、誰も振り向いてもくれない。

それでも諦め切れず、今度は〝ぷう〟が流行るようにと、【ぷう御目見得、松島屋長二郎】なる千社札をつくる。

深川八幡や根津権現、目黒不動に千社札を貼って廻った。

神仏に頼ったところで流行るはずはなく、貼る当てのない〝ぷう〟の千社札だけが残った。
「弁造さん、この千社札をどこかに貼ってきてください」
「どこに貼るんです?」

長二郎の注文は相変わらず突飛だ。
「長屋の木戸はどうだろう」
「ひと目につくかもしれませんが」

弁造が渋っていると、
「手間賃は、はずみますよ」

長二郎は気前のよいところを見せる。

弁造は千社札と糊の壺を持って町へ飛び出した。

格好の長屋はないかと探し廻る。

勝手に貼れば、大家から文句を言われかねない。

堺町から高砂町への路地口で五郎兵衛長屋を見つけた。ここなら、ひと目にもつきやすく、人の出入りもありそうだ。弁造は千社札に糊をつけた。
「ちょいと、そこでなにしてるのさ」

突然、背後から声を掛けられる。

振り返ると、長屋の住人らしい腰の曲がった婆さんだった。
「こいつを、貼らせてもらおうかと」

弁造が千社札をちらつかせる。
「大家さん、承知なのかい」

婆さんが睨みつける。
「近ごろは勝手にベタベタと貼っていく奴が多くて、お前さんもその口だね」

その剣幕に、弁造は糊をつけたばかりの千社札を丸めてしまう。
「貼らなきゃ、いいんだろう!」
「なんだい、その言いぐさは!」

婆さんも負けていない。騒ぎを聞きつけて、加勢が来ては大変だ。
「そいじゃ、あばよ!」

弁造は早々に引き上げた。


長二郎は遣ること成すこと、うまくいかず、これまでの勢いも何処へやら、さすがに落ち込んでいた。

夕刻になると年老いた下足番と一緒に、松島屋の玄関先で客を迎えるのが日課だったが、居候部屋に閉じこもったまま出てこようともしない。

弁造が松島屋を訪ねたとき、いつもの長二郎とは思えぬ憔悴ぶりだった。
「そのうち、評判を呼びますよ」
「気休めはやめてくれ、これじゃ、いつになったら引札書きの仕事がくるか、分かりゃしねぇ」

すっかり自信を無くしている。
「こうなったら、直接、売り込んでみたらどうでやす」
「どこに売り込むというんだい」
「引札を配るような商人を見つけるんですよ」
「見つけるといってもな」
「長二郎さんらしくもねえな、手始めに満月堂はどうでやすか」
「そいつは駄目だ」

満月堂の月饅頭は三馬からけなされ、けちがついているので売り込むなら、べつの店にしたいと長二郎は思った。
「そうなると薬種屋かな」

三馬店の垂れ幕が、弁造の脳裏をかすめた。
「そうだ、弁造さん、小網町の岩田屋はどうだろう」
「目尻の下がった、にやけた顔の?」

岩田屋の八兵衛なら、弁造もよく知っている。
「手広く商っているようだし、駄目でもともと、掛け合ってみよう。ひょっとしたら、ひょっとするかもしれない」

長二郎は、すっかりその気になっている。
「乗りかかった舟だ、あっしも、お供しやすよ」

長二郎を一人で行かせるわけにはいかないと、弁造は男気を見せる。
「よし、決まりだ!」

長二郎は打って変わって元気になった。


小網町の岩田屋は店売りだけでなく、上総や安房方面に薬種を卸す問屋でもある。

長二郎が引札文を書かせてほしいと頼むと、
「やぶから棒に、何だい!」

店主の八兵衛は面食らっている。海のものとも山のものとも分からぬ者に、引札を書かせるわけにはいかないといった顔だ。
「ご懸念は、ごもっともで御座います。何を隠そう、この長二郎、戯作者の式亭三馬先生の直弟子でございます」
「直弟子だから書けるというもんでもあるまい」

三馬が『浮世風呂』の作者であることは八兵衛も知っている。
「一度、書かせていただければ」
「どんな出来かも、わからねェのに頼むわけには」

八兵衛が渋っていると、長二郎はとんでもないことをいった。
「書かせていただけるなら、こちらから金を包みたいぐらいです」
「えっ、金を出すというのか」
「いえ、その覚悟で書くということで」

長二郎が心意気を示すと、弁造も黙ってはいられなくなった。
「あっしは、引札をただで配りやすよ」
「どうしてそれほどまでに」

八兵衛はびっくりしている。

長二郎は引札書きになるための修業の一つだと話した。
「引札をただで書いて、ただで配ってくれるというのか、なるほど、そういうことなら断る理由はねえな」

八兵衛は頼んでみることにした。
「ちょうど売り広めたいものがあるんだ」

岩田屋特製の歯磨き粉『梅清香ばいせいこう』の売れ行きが芳しくなく、八兵衛は引札を配りたいと思っていたところだった。
「それじゃ、梅清香の引札を書いてくれ」
「お任せください」

長二郎は満面の笑みを浮かべ、八兵衛に何度も頭を下げた。


長二郎は岩田屋の『梅清香』を手にすると、まず自分で使ってみることにした。

しかし、歯を磨いても良い案は浮かばない。

八兵衛に大口を叩いた手前、『梅清香』が売れる引札文を書かなくてはならないのだ。

いざとなると、どんなことを書けばよいのか、まるっきり見当がつかない。

そのとき、ある年寄り客からいわれた言葉を思い出す。

下足番に嫌気がさし、長二郎が悶々としていたときだった。
「うずくまっている鳥は、何も手に入れることができないが、足で水を掻く鳥は、餌を手に入れることができるんだぞ」

そのときは年寄り客の戯言と思ったが、いまは、その含蓄のある言葉が、長二郎のやるべきことを示唆しているように思えた。


―そうだ、じっとしていては何も浮かばない。

長二郎が勝手口の前を通ると、板前が魚河岸から帰ってきたところだった。

魚の入った桶に大きな鯛が歯を剥いて入っていた。
「いい歯、してるじゃねえか、これじゃ歯磨きの心配はいらねえな」

笑いながら長二郎は外に飛び出して行く。

町をあちこち歩きまわり、気がつくと江戸橋広小路まで来ていた。

まだ人通りも少なく閑散としている。

江戸橋広小路をひとまわりし、馬喰町の路地裏に入ると、年寄りたちが縁台で日なたぼっこをしていた。
「おい、わしに、かなう者は、いやせんだろう」

一番年嵩らしい男が仲間たちに叫んだ。
「いや、おるぞ!」

白髪の男が叫び返した。
「ほれ、見るが、いい!」

白髪の男が大口を開けると、仲間が代わる代わる覗き込んでいる。すると一番年嵩らしい男がいった。
「おめぇが横綱だ!」

白髪の男に軍配を上げると、皆、笑い転げる。

年寄りたちは、自慢にもならない歯の抜け具合を競っていたのだ。

長二郎は、あまりの馬鹿馬鹿しさに路地を抜けて、柳橋の家に戻ってきた。

そして家に帰ると、また歯を磨きはじめる。

三馬の教えを思い出し、売り広めようとするものを、いろいろな角度から吟味しようと、朝、昼、晩は言うに及ばず、四六時中、磨いていた。

あまり磨きすぎて歯ぐきが腫れ、物を噛むことができなくなった。

味覚が麻痺し、甘い物や辛い物の区別もつかなくなり、好きな満月堂の月饅頭を食べても、砂を噛むような味気なさだった。

―うっ、痛っ!

あまりの痛さに、歯が抜けてしまうのではと思ったときだった。

歯の抜け具合を競っていた年寄りたちの顔が目に浮かんだ。

長二郎は筆を執ると思いつくままに書き付ける。

初めは文字の羅列だった。

書き直したり、並べ変えたりしているうちに、だんだんと引札文らしきものになってきた。


い、甘い、苦い、辛い、塩辛い
五味の味わい
総て舌と歯の成せる技なり
歯磨き粉『梅清香』を用いれば
口中さわやかにして
悪しき臭いを取り去り
老後に歯の抜けること稀なりまれ


このところ、弁造は足繁く松島屋をたずねている。

長二郎がどんな引札を書くか気掛かりで、息をつめて見守っていたのだ。
「弁造さん、どうだろう、岩田屋さんに、気に入ってもらえるかな」

長二郎は歯をすうすうさせながら引札文を見せる。
「老後に歯の抜けること稀なりか、いいじゃねえですか」

弁造に褒められると、
「本当かい」

長二郎が大口を開けて喜んだ。
「これなら、岩田屋さんも文句はねえですよ」
「そうか、文句はねえか」

長二郎は眉毛をぴくぴくさせる。
「これから岩田屋さんへ行って、見せてきやしょう」

弁造に急き立てられると、
「善は急げだ!」

長二郎は歯茎が痛いのも忘れたようだった。


八兵衛は帳面を片手に、手代と薬種の照合をしているところだったが、引札文ができたと知ると、長二郎と弁造のところにやってきた。
「どれどれ、見せてくれるか」

八兵衛は「ふむ、ふむ・・・・」と頷きながら読んでいる。
「如何でしょうか」

長二郎は待ち切れずにいった。

弁造も上目遣いで、八兵衛の様子を見ている。

こうした売り込みは、いまで言うところのプレゼンテーションだ。
「老後に歯の抜けること稀なり・・・・うん、これは、いい!」

八兵衛がにんまりした。
「有り難うございます」

長二郎は眉毛をピクピクさせる。
「摺りを増やすから、配る場所も増やしてくれるかな」

八兵衛は引札文が気に入って欲が出たようだ。
「配りは任してくだせェ」

弁造はこれを機に、八兵衛から仕事をもらおうという魂胆もあった。


弁造は『梅清香』の引札が出来上がると、千社札で失敗した五郎兵衛長屋にも足を運び、名誉挽回とばかりに、井戸端で洗い物をしている女たちに引札を配り、『梅清香』のご吹聴につとめるのだった。

弁造が、ひと仕事を終えて松島屋に戻ってくると、長二郎が待ち構えていた。
「弁造さん、年寄りを集めてくれないか」
「今度は何をしようってんです」
「それは、これからのお楽しみ!」

長二郎が意味ありげな笑いを浮かべる。

弁造は何をするのかも明かされぬまま、照降町界わいの年寄りに声を掛けてまわった。

小遣い銭が貰えると知って、十七、八人ほどの年寄りが集まってきた。

長二郎は集まった年寄りたちに、『梅清香』の引札を配りはじめる。
「皆さん、この引札を持って小網町の岩田屋さんへ行き、歯磨き粉の梅清香を買ってきてください」

それを聞いて年寄りたちが騒ぎ出した。
「歯磨き粉を買って来いだと?」
「どういうことだい!」
「銭はどうする?」

ぶつぶつ言う年寄りたちに向かって、長二郎がにっこりと笑う。
「代金はこちらで用意しますから、ご心配ご無用、ただし、注文があります。この引札を見て来たと言ってください。梅清香は一度買ったら、しばらくして、また一袋、買い求めてください。一度に二袋買ってはいけません。二度に分けて買い求めてください」

細かい買い方まで指図する。
「これは梅清香二袋の代金と、皆さんへの手間賃です」

長二郎が金を配りはじめると、年寄りたちがおとなしくなった。
「買ってきた歯磨き粉は、どうするんじゃ」

赤子を背負った老婆がいった。
「どうぞ、お使いになってください」
「歯磨き粉もくれるのか」

老婆はうれしそうな顔をする。
「ご近所の方々にも梅清香を、お買い求めくださるように、皆さんから、ぜひ勧めてください」

年寄りたちは分かったというように頷き合っている。
「それでは間違いなく、岩田屋さんで梅清香を買ってください」

年寄りたちが『梅清香』を買わないで、金を猫ばばしないように念を押した。

長二郎は年寄たちを「さくら」として、岩田屋へ送り込むという策略だった。

これは、ステルス・マーケティングという販売上の戦略である。

翌日、岩田屋には年寄りが押し寄せた。

もちろん『梅清香』の引札を持った、さくらの年寄りもおとずれたが、弁造の配った引札を見た年寄りたちが「歯が抜けにくい歯磨き粉をくれ」と、やって来た。長二郎の書いた引札文が評判となり、年寄りたちが先を争うようにして、岩田屋の『梅清香』を買いにきたのだ。

八兵衛は『梅清香』が品切れになっては大変と、店の者を製造元に走らせる。

目尻の下がった八兵衛の目は下がりっぱなしだった。

その夜、長二郎と弁造を奥座敷に通し、「飲んでくれ、食べてくれ」と、八兵衛は下にも置かぬもてなしをする。

がつがつ食べる弁造を横目に、長二郎はこれからは岩田屋さんに乞われて書いてみたいものだと気持を高ぶらせていた。