ぷう、それは江戸(上巻)

七、化粧水「江戸の水」誕生

庄三郎と徳次郎が、横山町の薬種問屋、大坂屋を訪ねると、
「化粧水を売り出すそうですね」

主人の佐平が開口一番にいった。お初から聞いていたのだ。それなら話が早いと、庄三郎は、さっそく香薬水の仕入先をたずねた。
「下総の仲買人からです」
「そのあたりは、茨の花が、ぎょうさん、咲いてはるんどすか」
「下総から常陸にかけては、茨が自生しております」
「すると、蘭引してくれはる、お人も」
「ええ、おります」
「それを伺って安堵いたしました」
「しかし、香薬水は手間ひまがかかりまして」
「それは、わても承知しております」

茨の花びらは、開いたばかりで夜露を含んでいないと、蘭引きにかけたときに液を充分採ることができないのだ。
「一日に、いくらも採ることができないんで」

佐平が言いたいことは、庄三郎も察しがついている。
「香薬水が値の張ることは、よう承知しております」
「それが分かって、おいでなさるなら、さっそく、下総の仲買人に当たりをつけましょう」

佐平の温厚そうな顔には、商人のしたたかさが見え隠れする。
「ほんなら、よろしゅう、お願い申します」

香薬水の工面がつき、庄三郎はほっとした。
「ところで、ヘチマ水を安うに仕入れられるところは、あらしまへんか」

ヘチマ水は化粧水づくりには欠かせないものだ。

ヘチマの根が吸い上げる漿液を安く手に入れることができれば、香薬水にかかる費用を少しでも捻出することができると、庄三郎は踏んでいた。
「それでしたら、本郷の瓜問屋、日野屋さんを当たってみたらいかがですか」
「瓜問屋さんどすか」

庄三郎が妙な顔をすると、
「日野屋さんは、ヘチマ水を専門に扱ってます」

ヘチマは、唐瓜(きゅうり)、冬瓜とうがん、夕顔、西瓜すいかと同じウリ科に属し、化粧水や咳止め薬などに用いられてきた。
「手前どもから聞いたといって、たずねてみてください」

日野屋は近郷の村々をまわり、村人たちが採ったヘチマ水を買い集めていた。


日野屋は大坂屋の紹介と知ると、安い値段でヘチマ水を卸してくれることになった。

庄三郎は化粧水づくりに必要なものが揃い、あとは香薬水とヘチマ水の割合を決めるだけだと、三馬に伝えた。
「それは、庄三郎さんが決めてください」
「わてより、おかみさんとお初さまに、お任せするほうが」
「いや、出来上がりに関わることだ、庄三郎さん、お願いしますよ」
「女の方が使いはるもんやさかい」
「やはり、素人に任せるのは」
「お二人にお任せしたほうが、よろしゅう思います」

庄三郎が固執し、香薬水とヘチマ水の割合は、お杉とお初が担うことになった。


「お杉さん、もうちょっと」

お杉は香薬水の入ったさかずきを持ち、伯母からもっと入れるようにと言われるたびに、はらはらしていた。

香薬水を多く入れれば、香りのよい化粧水はできるが、化粧水が値の張るものになってしまう。だからといって、値を下げれば儲けが吹き飛んでしまう。商いは利得がなければ立ち行かないことを、お杉はよく知っていた。

実家の翫月堂を継いだ兄が、高価な骨董を買い入れ、売れないとわかると利得も考えずに二束三文で手放してしまい、それがもとで店は立ち行かなくなり、つぶれてしまった。
「こんな具合でどうです?」

お杉が、ほんの気持程度に香薬水を入れた。
「もう少し入れた方が」

お初はまだ満足していない。
「伯母さん、香りは、ほどほどでないと」

お初は、お杉が金銭のことを気にしているのがわかった。
「それじゃ、この割合で」

お初は無理強いをしなかった。


―これで落ち着いて筆を執ることができる。

三馬は遅れを取り戻そうと文机に向かっていた。
「あの、ちょっと、いいですか」

お杉が恐る恐る入ってきた。
「なんだ?」

筆を執る気になったところに邪魔が入り、三馬は不機嫌になった。
「化粧水の調合が決まったので、そろそろ、化粧水の名前を考えてくれませんか」
「そうか、名前か」

肝心の名前をまだ考えていないことに、三馬は気づいた。
「どんな名がいい?」
「ひと目で、わかる名前が、いいですね」
「そいつは難しい注文だな」
「それは、御手の物じゃないですか」
「まったく、よく言うぜ」

この、お杉のおだてが曲者で、三馬は口車に乗せられてしまうのだ。
「ところで、化粧水を詰める、ビードロ(硝子)はどうした」
「大伝馬町の硝子師が、百文で十個だといってきましたが、庄三郎さんが両国米沢町の硝子屋に話を付けて、百文で十六個にしてもらいました」
「おお、それは結構」

庄三郎の仕事ぶりは的確だった。
「ビードロを入れる箱は、どうなった」

庄三郎は、ビードロは箱に入れた方が割れないし、上物に見えると教えてくれた。
「浅草福井町と越谷大泊村の箱屋が、百文に付き十四個つくるといったので、取りあえず頼みましたが、別の箱屋が百文で十六個つくると売り込みにきましたので、追々おいおい、そこにも注文することにしました」
「そうか、頼んだぞ」
「お前さんも化粧水の名付け、忘れないでくださいよ」

お杉は軽やかな足取りで階段を下りていった。

―分かりやすく、覚えやすい名か。

名付けはネーミングだ。商品の命でもある。

命は大事に扱わなくてはならない。三馬にはまだ子はいないが、名付けを考えるときは、子の名を付けるような気持でいる。

兼好法師も『徒然草』で寺院の名について、「名を付くること、少しも求めず、ただありのままに易く付けるなり」と述べている。

奇をてらったり、聞きなれぬ言葉を使うのは良くないといっていた。

誰もが知っている言葉から選ぶのがよいのはわかっている。

三馬は思いつくままに半紙に名前を書き付けてみるが、なかなかピッタリくる名が浮かんでこない。

半紙はいつの間にか墨で真っ黒になってしまった。

半紙を替え、何度か繰り返しているうちに、これだというものが見つかった。
「おい、ちょっと、上がって来い!」

階下のお杉を呼んだ。
「どうだ、いいだろう」

三馬は会心の作と思ったのだが、お杉は半紙を見つめたまま黙っている。
「どうした、何とか言ったらどうだ!」

三馬が声を荒げると、
「〝江戸の水〟ですか」

お杉がぽつりといった。
「おめえの注文どおり、分かりやすく、覚えやすいだろう」
「なんだか、飲み水みたいですね」
「飲み水だと?」
「江戸の水といえば、神田玉川上水のことでしょう?」
「なんて奴だ、そんなことしか考えつかねェのか」

女房のへぼさ加減に、三馬はむっとする。
「だって・・・・」
「だってもくそもあるか。田舎から出てきた女が、江戸の水に浸かると垢抜けるっていうだろうが」
「垢抜ける?」

お杉の表情が変わった。
「頭に江戸がつくと、江戸っ子は誇らしく思うじゃねェか。江戸城、江戸橋、江戸紫、江戸小紋、江戸唄、江戸前―」

三馬が江戸と名のつくものを並べ立てた。
「そう言えば、筋向かいも江戸櫻さん」

お杉も調子を合わせる。
「江戸の水と江戸櫻が揃えば、これぞ江戸名物だ」
「参勤交代で国元に帰る、お侍さんたちの江戸土産になりますね」
「どうだ、江戸の水は悪くねェだろう」
「悪くないかもしれませんね」
「良いと言え、このべら坊めが!」

三馬は思わず声を荒げてしまうのだった。
「それじゃ、江戸の水ということで、さっそく引札のほうも頼みますよ」
「もう、それだ」

お杉の変わり身の早さに、三馬はあきれるばかりだった。