ぷう、それは江戸(上巻)

六、趣向をうがついとまなし

このところ、三馬は足の調子があまりよくない。

ところがどういうわけか、頭だけは冴えている。

いつもは考えつかないようなことが浮かんでくる。

しかし、いざ、筆を執ろうとすると意気が揚がらず、書くことができない。書かねばならぬ、売らねばならぬと、気持だけが空廻りし、商いと戯作が綱引きでもしているように行ったり来たりする。

商いに身を入れようとすれば筆先が進まず、戯作に集中しようとすれば商いが疎ましくなる。こちら立てれば、あちら立たず。昨日なまけ、今日ずるけ。焦れば焦るほど、時だけが無駄に過ぎていく。

そんなときに板元の亀屋紀左衛門が、しびれを切らしてやってきた。
「先生、そろそろ頂戴できますでしょうか」
「せっつかれても、書けねェときは、書けねェんだ」

亀屋からは草双紙を頼まれていた。
「そこをひとつ、何とか、お願い致しますよ」

今日こそは色よい返事をもらおうと、亀屋も必死だった。

桜が咲く頃に売り出すには、筆工や画工による板下づくり、板木師や摺師の手間ひま、造本までを入れると、暮れには稿本が出来上がっていなければならない。
「そういわれても、右から左へと書けるもんじゃねェ!」
「どうか助けると思って」
「今度は泣き落としか」

三馬はそう言うと背中を掻きはじめる。
「内容は、あまり凝らずに」
「粗く書けというのか」
「いえ、そういうことではなく」

亀屋は誰にでも読める平仮名で、長屋住まいの大工や左官、棒手振ぼてふりなどの言葉で書いてほしいという。
「作料も、いささかのことでございますので」
「そんなことは聞かんでも、わかっておるわ」

潤筆料は御布施のようなものだった。

板を重ねなければ無収入に等しく、いくら貰えるかは板元次第だった。

だから戯作者が入り婿になったり、副業を持つのは、ごく当たり前のことだった。

山東京伝が自分の稼業は商人だと公言するのもそうした理由だった。

三馬から嫌みを言われると、亀屋は矛先をかわした。
「絵も彫も、くどくないように仕上げたいと思いまして」
「つまり、彫摺ちょうしょうの手抜きだな」
「いえ、分かり易く、面白く、造本には手間のかからないものをと」
「要は一刻も早く売り出して、儲けたいという魂胆だな」
「そう、はっきり申されますと」

亀屋は苦笑いをする。
「わかった、わかった、早々に仕上げよう。こっちとしても、いつまでも抱えていては、きまりがつかねェからな」
「それでは、首をなごうして、待っております」

首といわれ、三馬はまた首を掻いてしまう。

書けぬときは書けぬと、亀屋に開き直ってはみたが、注文に応えられぬ自分が情けなくもあった。


三馬は『浮世風呂』女中湯之巻の続編を、女中湯之遺漏と決めていた。

人は裸になれば、身分の違いも貧富の差も関係ない。皆、憂さを忘れ、本音をぶちまけ合い、噂話に夢中となる。

女湯の生の雰囲気を伝えるには、女湯の光景を見聞きするのが一番だが、覗き見するわけにはいかない。さりとて、三助に化けて入り込むわけにもいかない。

女中湯之巻は、屋敷奉公をしていた伯母お初が、御女中たちの考えていることや言葉づかい、内緒話などを聞かせてくれた。

女湯での世間話は、お杉が聞き込んできてくれた話などを折り込んだ。

女湯での出来事となると、やはり伯母と女房が頼りだ。

しかし、そうそう面白い話が転がっているわけではない。前作に勝るとも劣らぬものをと思うと、ついつい肩に力が入ってしまう。

三馬の銭湯通いが続いている。

この日も行きつけの銭湯を訪れると、顔見知りの番頭が申し訳なさそうな顔をした。
「あいにく、混み合っておりまして」

手習い帰りの子どもらで、湯船は芋を洗うような混雑ぶりだった。

すぐには入れそうもなく、三馬は、しばらく番台の前で様子を見ることにした。
「どうだい、何か面白い話はねぇかい」
「そうですなあ」

子どもらが気になるのか、番頭は上の空だった。

最初に書いた『浮世風呂』男湯之巻で、銭湯の勝手を知らない田舎者が、下盥しもだらいに浸してあった他人のふんどしで顔を洗うというくだりは、この番頭から聞いた話だ。
「そろそろ、子どもらを追い出しましょう」

番頭は騒いでいる子どもらに、湯船から上がるようにと声を掛ける。

三馬が手のひらで湯銭を転がしながら、女湯の様子をうかがっていると、浴衣の右肩をはだけた女が、背をこちらに向けて座っていた。

―おっ、艶っぽい!

三馬がにやりとすると、戻ってきた番頭が耳元で囁いた。
「さる御店おたなの旦那の囲われ者です。旦那が訪れる日は、この時刻になると決まってやってくるんで」

女は気配を感じたのか、振り返えると慌てて浴衣のえりを掻き合わせた。

後ろ姿ほど色っぽくはない。三馬が拍子抜けした顔をしていると、番頭が笑いをこらえている。

そのときだった。

―うむ、これは?

三馬の胸元をシラミが這っている。

捕まえようとすると、あっという間に見えなくなった。

このところ、体中が痒かったのは、こいつのせいかと思うと、三馬は首すじがまた痒くなった。
「どうしました?」
「シラミ、シラミだ!」

三馬が声を上げると、
千手観音せんじゆかんのんのお出ましか」

銭湯には珍しいものではないので、番頭は落ち着いたものだ。
「何が千手観音だ!」

触手が多いことから、千手観音などと呼ばれるが、シラミは人の生き血を吸い、かゆみを与える嫌われものだ。
「まったく、小汚こぎたねェんだから・・・・」

三馬が帰ろうとすると、
「湯にへえらねえんで?」

番頭が追いかけてくる。
「湯になんど、へえってられるか」

三馬は捨て台詞を残し、銭湯を飛び出した。


表に出ると、前方から肥えた男が体を揺すりながらやってくる。

可楽だった。

うつむきながら何やら、ぶつぶつと呟いている。

三馬が呼びかけてもまったく気づかない。
「可楽師匠!」

もう一度、呼ぶと驚いて顔を上げた。
「三馬さんか、ちっとも気づかなかった」
「ぶつぶつ言ってるんで、気でも触れたのかと思ったぜ」
「ちょいと、稽古をしてたんだ。三馬さんは、銭湯のけえりかい」
「いや、急に思いついて家に戻るところだ」
「銭湯のネタでも思いついたんだな」
「まあ、そんなところだ」

可楽に噺のネタにされてはかなわないので、シラミにたかられたことは言わなかった。
「面白ェものを待ってるぜ」


〽けふはとりわけ、いろいろと
いふこと、きくこと、たんとある・・・・


可楽は新内節「帰咲名残命毛かえりざきなごりのいのちげ」の一節を口ずさみながら、上機嫌で銭湯に入っていった。


三馬が店に戻ると、お杉が薬種問屋から届いた箱を開けているところだった。
「あら、お前さん!」

銭湯へ行ったばかりで戻ってきたので驚いている。

三馬は湯船から上がった後は、銭湯の二階に上がって、世間話に耳を傾けたり、ネタになりそうな話を聞き込んでくるからだ。

三馬が二階の仕事部屋へ上がろうとすると、お杉が追いかけてきた。
「どうしたんです?」
「ちと、体が痒くて」
「何ですって!」

お杉は、すぐにぴんときた。
「早く、脱いでください」

有無を言わせずに、三馬を裸にする。
「湯船にはへえってねェんだぞ」
「寒くても我慢してくださいよ」

お杉は鉄瓶を持ってくると、手拭いに湯をかけ、三馬の体を拭きはじめた。

それを終えると、店から鍋屋源兵衛の『しらみうせ薬』を持ってきて、三馬の体に擦り込すんだ。
「いやだ、こっちまで痒くなっちまう」

お杉はそう言いながら自分の胸元を掻く。三馬が脱いだ着物を丸めて持つと、物干し場に出て棹に広げた。

―あとは、お天道様に、お願いしてと。

お杉はぬかを一掴みして手を洗い、店に戻った。

手代の徳次郎が薬種を棚に並べているところだった。
「徳さん、近江屋へ注文したものは?」
「へえ、きてやす」

近江屋吉兵衛から御目洗い薬『竜樹散』が届いていた。
「式亭家伝の御歯みがき粉は?」
「まだ充分あるんで、注文はしてません」

歯みがき粉は商売敵が多い商品だった。
『匂ひ薬歯磨』、『乳香散』、『清浄散』といった歯みがき粉が売り出されている。

近ごろは、荒物屋や銭湯、神社の露天商などでも売られている。わざわざ式亭家伝『御歯みがき粉』と銘打ったのもそのためだ。
「ところで、徳さん、化粧水はどうなってます?」

お杉は、新しく売り出す化粧水の進み具合いが気になっていた。
「年明け早々には、庄三郎さんと一緒に、大坂屋さんへ香薬水のことで伺うことになっていやす」
「よろしく頼みますよ」

お杉は、三馬が亡くなった先妻の母親をいまだに「おっかさん」と呼んでいるのが嫌だった。

その義母から店びらきの資金と、新しく売り出す化粧水の資金も融通してもらっている。なんとしても新しく売り出す化粧水を成功させ、万屋のお良から借りた金は早く返したかった。