ぷう、それは江戸(上巻)

四、借金は身上のくすり

富士山が夕日を背に、黒く浮かび上がっている。三馬は両国橋を通り抜ける風に「おお、さむ!」と身をすくめる。風呂敷包みを小脇に抱え、東両国へ向かっていた。

家路を急ぐ男たちが、両国橋を東両国へと渡ってくる。その流れに押されるようにして、三馬は東両国の広小路へと入った。

可楽が定席にしている小屋の前までくると、三馬は覗いて行こうかと思ったが、先を急いでいたので、そのまま通り過ぎることにした。

見世物小屋の前では蛇遣いの男が、二匹の蛇を器用に操り、蛇馴らしをしているところだった。

それを横目に見ながら通り過ぎると、三馬は奇妙な風体をした二人の男に出くわした。『とう八五もん』と書かれた笠を被り、脚絆きゃはん草鞋わらじばきのいで立ちで、腰に小刀を差し、背には風呂敷包みを背負っている。

突然、二人の男が扇子をかざすと、道の両端に分かれた。

背の高い男が「藤八とーはち!」と呼びかけると、背の低い男が「五文ごもん!」と答える。そして、二人は道の真ん中に戻り、互いに向き合って「奇妙!」と声を合わせた。

三馬は「奇妙?」という言葉にひかれ、何が始まるのかと立ち止まると、背の高い男が引札を配り、背の低い男が口上を述べはじめる。


オランダ伝法の丸薬『藤八五文』にございます
鎮西肥前ちんぜいひぜん、長崎平戸の綿屋藤八が製し
腎精を増し、脾胃をととのえ
気を開き、食をすすめ
しゃくつかえ、眩暈めまいなど
その効能、かぞえ難し
一包五文で十八粒
トーハチに、ござ〜い!


藤八とーはちと十八の語呂合わせじゃねェか。

もっと気の利いたことをいうのかと思ったら、ただの薬売りの口上だった。

三馬が、がっかりしていると、背の高い方の男が買ってくれと言わんばかりに、『藤八五文』を突きつけてきた。「いらねェよ!」

三馬が体をかわすと、男は「ちぇっ!」と舌を鳴らした。


三馬は先を急いだ。

本所小梅には、かっての義母お良が住んでいる。

三馬は、お杉と一緒になる前、数寄屋橋御門に近い山下町の蘭香堂に婿入りした。

義父の万屋太治右衛門は「薬は命を養い、本は心を養う」といい、蘭香堂は薬種店と書林を兼ねていた。

女房つねが病死し、三馬は婿入り先を出たが、養父母にはつねのほかに子がなく、縁が切れても付き合いは続いている。

義父が他界した後、義母は店を続けていたが、神経痛を患い、文化三年の大火の前に店をたたんでいた。

いまは身の回りの世話をしてくれる手伝いの女と本所小梅で暮らしている。

時折、三馬がお良を訪ね、いまだに「おっかさま」と呼んでいるのを、お杉は快く思っていない。

実は、お良の口利きで『延寿丹』の関東売弘所となったのだが、三馬はお杉を気づかって、西宮新六の口利きということにしていた。

新六は、三馬の処女作『天道浮世出星操うきよのでづかい』の板元で、お杉もよく知っていたからだ。

しかし、金の工面先だけは嘘をつけず、お良が蘭香堂をたたんだときの財の一部を融通してくれたと、正直に話していた。
「おっかさま、体の具合は、いかがですか」
「なんとか、だまだまし、過ごしています」

お良の体は年を取って、ひとまわり小さくなっていた。

三馬は、お良の好きな饅頭を、わざわざ通一丁目の塩瀬で買ってきた。
「あの子も、これが好物で」

お良が足を引きづりながら娘の仏壇に饅頭をあげると、三馬もそっと手を合わせた。

亡くなったつねは病気がちで夫婦らしい暮らしは、わずか二年足らずだった。女房との情は薄かったが、義父母とは実の親子のような関係だった。
「来年は、おとっさまの十三回忌ですね」
「早いものですね」

三馬の婿入りは、戯作を書かせてもらうことが条件だったので、店の仕事は手伝わず戯作ばかり書いていた。
「親孝行らしきこともせずに」

義父は温厚な人柄だったので、三馬は文句ひとつ言われたことがなかった。
「うちの人が亡くなった後、私を助けてくれたじゃないですか」

お良は、三馬が『温臍綿うんさいめん』の引札を書いてくれたことをいまでも感謝している。


この長寿温臍綿、俗に綿温石わたおんじゃくと申す
常に懐に入れ、お臍の上へ当て置くと
忽ち薬力五臓をめぐりて
寒風秋雨に侵さるゝの憂いなし
精をはげまし、邪湿じゃしつを去りて、食をすすめる
痔瘻脱肛申すにおよばず
冷えより発する病の数々
薬(温熱)の廻るにしたがい、全體自然とあたたまる
何とぞ此段、御吹聴被りますよう
御願い申し上げます


「引札のおかげで、綿温石が冷え性の人によいと知れ渡り、とても喜ばれました。そうそう、景物本も書いてくれましたね」

三馬は『綿温石奇効報条きこうのひきふだ』という景物本も書いていた。

寒三郎と、お冷えという寒がりの夫婦が、『綿温石』の効によって体が温まり、女の八つ子を授かり、その八人が無事に成長し、家が栄えるという目出度い物語だった。
「もう、十年も前のことですね」

お良が感慨にふけっていると、三馬はおもむろに切り出した。
「おっかさま、実は、折り入って相談したいことが」
「なんですか、急に改まって」
「実は、化粧水をつくって、売り出そうかと思いまして」
「店びらきをしたばかりで?」

お良は義父と違って、昔から手ごわいところがあった。
「これからは薬種だけではなく、女ものの化粧水なども扱わなくてはなりません」
「化粧水ですか」

お良は素人には無理ではないかと心配した。
「それは、だいじょうぶです」

延寿丹本舗から来ている人が、手伝ってくれることになったことを告げると、
「京の田中宗悦さんは、ご承知ですか」

お良の表情が険しくなった。
「田中宗悦さんには文を出してお願いしました」
「それで、わたしに相談というのは、なんでしょうか」
「厚かましいことは、わかっておりますが、お願いできるのは、おっかさましか、おりません。前にお借りしたものも返さずに、お願いするのは心苦しいのですが、化粧水を売り出すとなると、やはり、元手が入り用で、どうか助けると思って、いま一度、ご用立てをしていただけませんでしょうか」

お良は三馬の様子から見当はついていたようだった。
「お金は有り余るほど、あるわけじゃ、ありませんよ」
「分かっております」
「わたしも商人の端くれでしたから、きついことを申しますが、化粧水を出して売れる目算はあるんですか」

お良は商売っ気のない夫に代わって、蘭香堂を切りまわしていた。
「それは大丈夫です」

これまでの化粧水は、ヘチマ水からつくられているので青臭く、女たちが不満であること、香りのよい化粧水を出せば必ず受け入れてもらえると、伯母や女房から聞かされたことを話した。
「しかし、さらなる用立てとなると」

お良は渋い顔をした。
「遣り繰りはつかないの」
「全くのお手上げでして」

お良に断られると金貸しに頼るしかない。利子が先に天引きされ、元金は月割、日割で計算されるのだ。
「高利の金に、手を出したくはないので」
「商いは、山あり谷ありですからね」
「はい、承知しています」
「その化粧水、売れるという自信がおありなんですね」
「それはだいじょうぶです」
「わたしも、無駄金は使いたくありませんからね」

お良は商いをやめても商人の魂は失っていない。
「うまくゆけば、前に、お借りした分も早めにお返しすることができます」
「そんな、うまい具合にいきますか」
「取り扱う品も多くなって、客も増えておりますから」
「商いは順調なんですね」
「なんといっても、目抜き通りですから」

本町通りは人が多く、足を止める客の数も裏店とは大違いだった。
「それじゃ、わたしも、その化粧水に一枚噛ませてもらいましょうか」
「えっ!」

三馬は思わず聞き返した。
「儲けの何割かを頂戴するということです。儲けが出なかったら、わたしも損をすることになりますからね」

お良がきっぱりといった。

三馬も後に引けなくなった。
「ご損はさせません」
「その言葉を信じて、出すことにしましょう」

中途半端な追い貸しより、元手を出して分け前をもらった方が、自分のためにも三馬のためにもよいと、お良は思ったのだ。