ぷう、それは江戸(上巻)

三、白粉のはげぬ薬

本町通りに夕闇が迫っていた。縞の黄八丈を短めに着た女が、櫛やびん付油の入った鬢盥びんだらい(道具箱)をげ、足早に歩いている。三馬の伯母お初だ。立ち止まると本町通りを見まわす。

―あれは、ほんとうに、ひどい火事だったわ。

文化三年三月四日、巳の下刻(午前十時頃)、泉岳寺門前の空店から出た火は、折からの西南の強風にあおられ、高輪大木戸を越え、芝の増上寺五重塔を燃やし、新橋から京橋、日本橋へと広がり、武家屋敷や町屋のほとんどを灰にした。

火は夜になっても一向に衰えず、神田から浅草へと飛び火し、翌日の早朝から降り出した雨で、昼近くになってようやく鎮火した。

運び出した家財道具は雨に濡れ、人々は住む家も食べる物もなく、数万の人が焼け出された。焼死者は一千二百余人にも及んだ。

お初の住む本所横網よこあみ町の長屋は、大川の向こう側だったので延焼は免れた。橋止めをかいくぐり、お初は甥の三馬夫婦が住む日本橋十九文横町へと駆けつけたのだが、二人の姿はなく、すぐには会うことができなかった。

お初は四年前のことを思い出すと、いまでも身の毛がよだつ。このとき、焼け野原となった本町通りも、いまは家々が立ち並び、再びもとの活気を取り戻している。

お初は大工だった亭主に先立たれ、いまは本所の長屋で独り暮らしをしていた。

若いころ、大名屋敷で奥女中をしていたときに習い覚えた髪結いの腕を生かし、廻り髪結いをしている。この日は横山町の薬種問屋、大坂屋の内儀の髪を結ってきたところだった。
「本所のおかみさん!」

三馬店の手代、徳次郎が追いかけてきた。
「平八さんのところへ行ってきやした」

三馬の言い付けで、日本橋音羽町の平八のもとに、徳次郎は『延寿丹』を届けてきたところだった。
「平八の具合は、どうでしたか?」
「まだ臥せっているようで」
「大事にならないといいけど」

お初は甥の平八の病気を心配した。

この夜は三馬店の店びらきを祝って、内輪だけで膳を囲むことになっている。


三馬店では祝いの支度が整っていた。

膳の上には、ひと塩かれいの焼物、おぼろ豆腐、切り干し大根の煮付けが載っている。

お杉が忙しい仕事の合間を縫って用意したものだ。
「とらの助さん、おめでとうございます」

お初は相変わらず、三馬の子どもの頃の名を呼んでいる。

三馬は幼いころに母親を亡くし、伯母お初は母親がわりでもあった。
「店びらきの日は、髪結いの仕事が入ったもんで、立ち会えなくて」
「いや、伯母さんには、いろいろと助けてもらいました」

お初の口利きで大坂屋から薬種をいろいろと仕入れることができたことを、三馬は感謝している。
「たいしたものは、用意できませんでしたが、どうぞ、召し上がってください」

お杉が声を掛けると、庄三郎、お初、徳次郎が席についた。
「無事に店びらきをすることができたのも、皆のおかげだ」

三馬が礼を述べ、お杉が皆に酌をし、三馬にも酒を注ごうとすると、
「手酌でいい!」

お杉の手を押さえた。

酒好きの三馬は自分で勝手に飲むのが好きだった。
「大坂屋さんから聞いたのですが、京橋の京伝店から白粉が売り出されるそうですよ」

京伝店は戯作者の山東京伝が商う店だ。
「伯母さん、どんな白粉が出るんですか」

三馬が、さっそく興味を示す。
「ご内儀のお袖さんによると、京の紅問屋、玉屋の白牡丹だそうです」
「玉屋といやァ、本町二丁目角に、江戸店があったじゃねェか」
「先の大火で焼けてしまったから」

火事の後、京の玉屋は江戸店を引き上げていた。
「それで京伝店が、江戸の売弘所となったそうです」
「そうか、京伝は玉屋の景物本を書いていたからな」

景物本とは、今風に言えばPR小冊子のことである。

京伝は戯作を書くかたわら、読書丸や奇応丸などの薬と、煙草入れや煙管、楊枝入れなどの懐中物一式を商っている。

三馬は、山東京伝を何かにつけては引き合いに出すところがある。『浮世風呂』は、京伝の戯作『賢愚いりこみ銭湯新話』の影響を受けたともいわれている。此度の三馬店の開店も京伝を意識してのことだった。
「庄三郎さん、白粉は、やはり京が本家ですかね」

庄三郎は、いける口ではないらしく、すでに真っ赤になっていた。
「いえ、白粉の本家は堺どす」

庄三郎によると、泉州堺の薬種屋、小西清兵衛が明国から白粉の精製を習得し、売り出したのが最初で、やがて京で白粉がつくられるようになると、十二単の小野小町の絵姿を目印にして売り出すようになり、京白粉が広く知られるようになったのだといった。
「うちでも白粉を扱うか」

京伝店が女物にも力を入れるとなると、三馬は見過ごすことができなかった。
「お前さん、白粉なら、うちの筋向かいに江戸櫻与七店があるじゃないですか。白粉より化粧水けしようみずですよ」
「どうしてだ?」
「だって、白粉を塗らない人でも、化粧水は付けますからね」
「お杉さんの言うとおりですよ」

お初は、化粧水は顔に付けるだけではなく、白粉下に付けたり、白粉を溶くために使ったりと、使いみちが広いのだといった。
「なるほど、化粧水は用途が広いのか」
「化粧水は、白粉のはげぬ薬ですから」
「白粉のはげぬ薬?」

三馬が怪訝な顔をした。
「いえ、ちょっと拝借しただけですよ」

お杉は、お歯黒の『るりの露』の引札に、『おはぐろのはげぬ薬』と書いてあるのを見て、それを真似ただけだった。
「白粉のはげぬ薬か、なかなか、うまいことを言うじゃねェか」

三馬は言葉えらびには人一倍苦労をしているので、気の利いたことをいわれると、つい感心してしまうのだ。
「わても、白粉より化粧水のほうが先と思います」

白粉は遊女が使う安直あんちよくなものから、高貴な人が使う高直こうじきなものまであるから、よく見極めてから扱った方がよいと、庄三郎が助言する。
「ピンからキリまであるんですな、ところで、京伝店の白牡丹はどうなんで?」
「月宮美人香とも呼ばれ、高直な白粉どす」
「ほお、そうですか・・・・しかし、化粧水となると」
「そう面倒なことは、あらしまへん」
「どうやって、つくるんですか」
「ヘチマ水の漿液に、丁子や片脳などを加えて、つくりはります」
「それなら、これも入れてみたらどうかしら」

お初が鬢盥の中からビードロ(硝子)の小瓶を取り出した。
「伯母さん、それは」
「お杉さん、この間、話した香薬水かおりくすりみずですよ」

オランダ渡りの処方でつくった花のつゆで、大坂屋の内儀から手に入れたものだった。
「ご大層な値うち物のようだな」

お初は三馬の手の甲に香薬水を落とし、お杉と庄三郎の手にも垂らした。
「花の匂いがするわ」
いばらの液どすな」

茨は肌をなめらかにし、胸膈のうっ気を散らす効果があり、昔から高貴な女性たちが匂い薬として、顔や首筋に付けていたのだと、庄三郎が説明した。
「その香薬水とやらは、どうやって作るんですかい」
「茨の花弁を蘭引にかけはります」
蘭引らんびきですか」

三馬が面倒くさそうな顔をした。
「蒸留用に使われる陶器具のことで、オランダ語のアランビックから転じたものどす」

庄三郎によると、茨は朝露が乾くとすぐに香りが飛んでしまうので、摘み取ったらすぐに蘭引にかけなくてはならないから、茨が自生しているところには蘭引する人がいるはずだといった。
「香薬水を入れた化粧水、売り出しましょうよ」

お杉が乗り気になると、
「そう早まるな!」

三馬は思わずため息をつく。化粧水を売り出すとなれば、先立つものが必要だ。そんな余裕はまだない。三馬店を出すに当たっては、借金をしているし、それもまだ返し終わっ てはいないのだ。
「いま、売られている化粧水は、ヘチマ水の匂いがきつくて」

お杉が不満をもらすと、
「ほんとに青臭くて、香りの良い化粧水が売り出されたら、きっと喜ばれますよ」

お初も調子を合わせる。
「化粧水が売れれば、借金を早く返すことができますよ」

お杉には、三馬店を切り盛りしているのは自分だという自負があった。
「しかし、化粧水となると」

三馬は、やはり躊躇してしまうのだった。
「なんなら、わてが、お手伝いしまひょか」
「手伝って、いただけますか!」

お杉が歓声を上げると、
「庄三郎さんは延寿丹の売り広めのために、京から来てくれたんだぞ」

三馬がとがめた。
「京の方には、話しをつけてくれはれば」

延寿丹本舗の田中宗悦が承知してくれれば、江戸に留まって化粧水づくりの手伝いをしても構わないと言ってくれたのだ。
「それじゃ、さっそく京に、お願いしてみましょうよ」
「おめえは、すぐに調子づくんだから」

店びらきを祝うはずが、化粧水の売出しの話になって酔いが覚めてしまったと、三馬は白けてしまうのだった。