ぷう、それは江戸(上巻)

二、押し掛け弟子、長二郎

可楽が、三馬のもとを再び訪れたとき、すでに先客がいた。眉毛の太い男が、三馬の弟子にしてくれと粘っているところだった。
「先生、お願い致します」
「弟子は、もういい」

三馬には為永春水を筆頭に十数人の門人がいた。彼らを集めては、戯作や狂歌をつくる上での心構えなどを教えている。

眉毛の太い男は、可楽を見ると人なつこい笑みを浮かべた。
「これは可楽師匠じゃありませんか、あっ、おくればせながら長二郎と申します。ここでお目にかかれるとは、師匠のご高名は、かねがね、うけ給わっております」

そして、柳橋の料理屋、松島屋の次男だと名乗った。
「おめえだったのか」

可楽は、三馬の弟子になりたいという男がいると弁造から聞いていた。どうやら強引に押しかけてきたようだ。
「そうだ、可楽さん、こいつを弟子にしてやってくれねェか」
「あっしの弟子に?」

三馬は店びらきをしたばかりで、自分の戯作を書く暇もないほどで、新しく弟子を取る余裕などなかった。
「わたしは口べたで」

長二郎は噺家になる気はない。
「口べたには見えねェな」

可楽は、はなしっぷりといい、風貌といい、噺家向きだと思った。
「やっぱり、可楽師匠の弟子になった方がいい」
「噺家は無理です」
「それじゃ、おめえが書いたものを見せてみろ。弟子入りがしたいなら、戯作の一つや二つは書いているだろう」
「戯作は書いておりません」
「書いてねえって、戯作者になりてェんだろうが」
「いえ、違います」
「違うって、どういうことだ」
「実は、引札書きになりたいんです」
「引札書き?」
「はい、先生のような引札書きに」
「おい、ちょいと待った、おれが引札書きだというのか」
「いえ、そういうつもりでは」

引札書きとは、いまで言うところのコピーライターである。

長二郎はしどろもどろになり、太い眉をピクピクさせた。
「これまで引札は頼まれてぇてきたが、引札書きを生業にした覚えはねェ!」

三馬の剣幕に、長二郎は米つきバッタのように頭を下げる。
「引札書きの弟子入りとは、恐れ入ったな」

可楽が驚くと三馬はムッとしていた。

こうなると手に負えなくなる。三馬のこうした性格を可楽はよく知っている。へそ曲がりで喧嘩っぱやいのだが、口ほどに他意はない。ときには、人に不快感を抱かせるような嫌みなことを口にすることもあるが、人から頼まれると嫌とはいえない情にもろいところもあるのだ。

三馬が黙りこくっていると、長二郎も口を真一文字に結び、我慢くらべでもしているように二人は向き合っていた。
「ところで、おめえさん、歳はいくつだい?」

可楽が笑いをこらえながらいった。
二十はたちになります」
「あっしが、噺家になったときよりわけぇか」

可楽は馬喰町の櫛屋に生まれた櫛職人だった。

二十二のときに、大阪からやってきた噺家、岡本万作の噺に刺激を受け、櫛づくりの道具を売り払って、噺家の世界に飛び込んだのだ。いまにして思えば向こう見ずな行動だったと、可楽は思っている。
「それで、どうして引札書きになりてェんだい」
「へぇ、松島屋の次男に生まれたのが、運の尽きと申しますか、後継ぎは兄貴と決まっておりまして、板前になることも考えてみましたが、庖丁を握ることはどうにも性に合いません。黙って下足番や外回りの掃除をしていれば、小遣い程度はもらえますが、その扱いは使用人並み、ごくつぶしの居候でございます。このままでいいのかと悩んでいるときに、弁造さんから三馬先生の『延寿丹』の引札をもらいまして、これだと思いました。戯作のような長いものは、とても書けませんが、引札文なら書けるのではないかと」
「ふざけるんじゃねェ!」

三馬は罵声を浴びせると、まくし立てた。
「引札は文人墨客と称される者が、乞われて書くところに意味があり、値打ちがあるってェもんだ。戯作のような長えものが書けねェから引札書きになりてェんだと、言ってくれなげるじゃねェか。どこの誰が、おめえのような奴に引札を書いてくれと頼みにくる」

ところが、それに臆することなく長二郎は喰らいつく。
「そんなこと、知るもんか!」

三馬は口をへの字に結び、そっぽを向いてしまった。
「要するに、世間様から認められることだな」

可楽が代わりに答えた。
「どうしたら、認めてもらえますか」
「そいつは難しいな」
「可楽師匠、教えてください」
「そうだな、人から注目されることだな」
「注目される?」
「あっしの噺を喜んで聞いてくれる人が、いるってことだよ」

可楽の定席は、二、三十人も入ればいっぱいになる小屋だったが、空店あきだなや貸席を借りていた頃に比べれば、いまはこれで十分だと可楽は思っている。
「喜んでくれる人が、いれば、いいんですね」

長二郎が勢い込むと、三馬はそれを無視するように、烏亭焉馬うていえんばとのことを話しはじめた。
「可楽さんと初めて会ったのは、たしか、烏亭先生の狂歌の会だったな」

烏亭焉馬は歌舞伎や戯作、落語などに長じ、頼まれれば引札文も書くという多芸多才な人だ。六十七歳を迎えたいまも、かくしゃくとしている。

焉馬を尊敬する三馬は、焉馬の馬の字を頂いて三馬と名付けたくらいなのだ。
「烏亭先生が開いた噺の会で、あっしも、ずいぶんと鍛えられたもんだ」

可楽は焉馬から「声は高きを厭わず、面皮は厚きを厭わず、人品を捨て、馬鹿を表すのだ」と、噺家の心得を教えられていた。
「で、どんなふうに鍛えられたんですか」

長二郎が話に割り込んできた。
「客から御題を三つもらい、小ばなしにまとめるのさ」
「その場で、まとめるんですか」
「あったりめェだ、三題ばなしの生みの親は可楽さんだぞ」

三馬は、可楽の頓智の才を高く買っていた。

三題ばなしは、噺がうまく運べば客は拍手喝采してくれるが、噺がうまくいかず、しくじったり、予想もしない展開になることもある。そんなとき、困り果てた表情をして見せると客は大喜びする。ところが、それが度重なれば客はうんざりしてしまうのだ。
「ここまでの道のりは、厳しかったな」

櫛職人から噺家の世界に飛び込んだのはいいが、素人の悲しさで持ちネタは五日で底をついてしまったのだ。一人前の噺家になれるようにと可楽は修行を積み、目黒不動に祈願したこともあった。
「引札書きになるのも、やはり厳しいですか」
「あったりめェよ。初めっから素人に書けるわけがねェ。いいから、このくれェにして、今日はェれ!」

三馬から追い返されると、
「それでは近いうちに、また参りますので、本日はこれで失礼させていただきます」

長二郎は、三馬から弟子入りを認められたと思ったのだろうか、あっさりと引き上げていった。
「なんだ、あいつ!」

三馬はあっけにとられている。
「あの図々しさといい、根性があるじゃねェか」

可楽が感心していると、
「そういえば、可楽さん、何か話があってきたんじゃねェのか」
「あっ、そうでやした」

長二郎の弟子入り話で、可楽は言いそびれてしまうところだった。
「実は、あっしの姪っ子なんだが」

上総木更津村から絵師になりたいと、可楽を頼ってやってきたのだが、娘を弟子にしてくれる絵師が見つからず困っていた。三馬なら絵師との交流もあり、弟子入り先を紹介してもらえるのではないかと思ってきたのだ。
「絵師に弟子入りしてェってんだ」
「なんでェ、また、弟子の話か」
「すまねェ、弁造のことを頼んだばかりで、また、頼みごとが続いちまって」

可楽は恐縮しながら話す。
「美津という娘なんだが、絵が上手いからって、絵師になれるわけじゃねェと、何度もあきらめるように説得したんだが、本人は絵師のもとに住み込んで、修業したいと言い張るもんで」
「女の内弟子か!」
「やっぱし、難しいかい」
「その娘っ子は、いくつだい」
「十八になったばかりで」
「十八といやァ、嫁に行く歳じゃねェか、それに、内弟子には野郎が多いからな」
「あっしも、それが心配で」
「まあ、可楽さんの頼みだ、すぐにはむりだが当たってみるよ」
「申しわけねェな」

可楽は自分を頼って出てきた美津を追い返すことはできなかった。それと、早く弟子入りさせたいという事情もあった。

美津を遊ばせておくわけにはいかず、女房おさよの煎餅売りを手伝わせていた。ところが、おさよはそれが気に入らず、ふくれっつらばかりしている。美津と喧嘩でもしたのかと思ったら、客が来ない店先に、煎餅売りは自分だけで十分だといった。もともと、おさよは人と馴染む性格ではなかったので、美津が目障りだったのだ。

可楽は、三馬から良い返事が届くまで、とりあえず、美津の働き口を探さなければと思っている。