十一、売らねばならぬ忙しさ
『江戸の水』の売り出しが間近に迫っていた。
弁造が久しぶりに三馬店をたずねると、三馬は書きかけの紙を散乱させ、必死に筆を走らせている。
弁造を見ると睨みつけた。
「何しにきた!」
「ちと、ご挨拶に」
「ふざけるんじゃねェ」
虫の居所が悪いのか、初っ端から喧嘩ごしだ。
「あの、ぷう野郎、おれの直弟子を名乗っているそうじゃねぇか」
やはり、お見通しだったと、弁造が肩をすくめる。
「おめえも一枚、噛んでいるようじゃねェか」
三馬の怒りの矛先が弁造に向かった。
「長二郎さんの手助けをしただけで」
「手助けだと!」
いつもの怒りぐせが出た。
三馬の怒りを和らげるには、長二郎が直弟子に恥じない仕事をしたことを話そうと、弁造は『梅清香』の引札を取り出した。
「そいつは、なんだ!」
「長二郎さんが書いた、岩田屋の歯磨き粉の引札です」
「歯磨き粉だと?」
三馬が血相を変える。
「おい、式亭家伝の歯磨き粉を知らねえとはいわせねェぞ」
弁造が「しまった!」と、気づいたときは遅かった。
歯磨き粉は三馬店でも売っている。
商売敵の売り広めに、ひと役買ってしまったのだ。
三馬は口をへの字に結び、そっぽを向いたままだ。
これで三馬店の引札配りも駄目になってしまった。
『梅清香』の引札を懐に入れ、弁造はそそくさと帰ろうとした。
「ちょっと、待て!」
三馬が引札を奪い取った。
「なにっ、歯の抜けること稀なりだと、年を食えば誰だって、歯は抜けるもんだ。ちょっとばかり指南してやっただけで、直弟子を名乗り、もう、一丁前の引札書き気取りか!」
ここぞとばかりに責め立てる。
弁造は、ただ、うつむいているだけだった。
「人の名を騙ったうえに、後脚で砂をぶっかけるとは、あの、恩知らずが!」
三馬は人から出し抜かれることが大嫌いだった。
信頼していた絵師の勝川春亭が、自分の稿本を後まわしにし、後から依頼してきた京伝の稿本の挿絵を先にしたことを怒り、春亭とはいまも絶交状態が続いている。
「砂をかけるなど、そんなつもりは」
「そのつもりがなくても、こうして岩田屋の引札を書いているじゃねェか」
三馬の怒りは収まりそうにない。
「いいから、もう、とっとと、帰れ!」
弁造は追い返されてしまった。
三馬の弟平八が三十一歳という若さで亡くなった。
三馬店の店びらきに、体調がよくないのを押して駆けつけてくれたのが、弟との今生の別れとなってしまった。
弟の野辺の送りをすませても、三馬は筆を執ることができず、火鉢を抱えては、ため息ばかりついていた。
この日は化粧水『江戸の水』の新発売の日だ。
お杉は店先の通りを掃き清め、売り出しの支度を整えていた。
伯母お初も朝早くから手伝いに来ている。
「お前さん、降りてきてください!」
お杉が呼びかけても生返事をするだけで、三馬は腰を上げようともしない。
「それじゃ、始めますよ!」
お杉は業を煮やし、三馬をそのままにして始めることにする。
店先には箱詰めした『江戸の水』が山積みにされていた。
その前に庄三郎と徳次郎が控えている。
和泉屋の手配した引札を見た人たちも店先に集まってきた。
『江戸の水』の口上を述べる男は、先ほどから出番を待っている。
お杉は、もう一度、二階を見上げてから、
「では、始めてくださいな」
と、男に声を掛けた。
憚りながら口上をもって
ご披露仕り申し上げます
本日、式亭三馬店におきまして
オランダ渡りの名方、おしろいのはげぬ薬
『江戸の水』を売り出し仕り候
ひび、しもやけ、御顔のできもの一切によし
きめをこまやかにして艶を出し
夏冬ともにはげず
おしろいのうつり悪しき御顔によくのり
はげざる事、請け合いなり
御女中がたに覚え良きように
『江戸の水』と名づけたり
三馬は階下から聞こえる口上に耳を傾けていた。
和泉屋が寄こした男の声は、ざらざらとした濁声だ。突き抜けるような響きが感じられず、声に艶がない。
三馬は障子を細めに開け、外の様子を窺う。
声の主は相撲取りのような体格をしている。
顔立ちが厳つく、御女中がたに覚え良きようなどと、とても言えそうにない風体の男だ。
口上を終え、引札を配りはじめるが、集まっている人たちに受け取ってもらうことができない。渡す間合いが悪く、皆、通りすぎてしまうのだ。
―駄目だ、弁造とは雲泥の差だ!
三馬がため息をついていると、階下が騒々しくなった。
徳次郎が慌ただしく動きまわっている。
三馬は階下に降りてきた。
「どうした」
「ビードロ詰めが、間に合わなくて」
徳次郎が答えた。
庄三郎が売り物の『江戸の水』をビードロに詰めると、お初が手際よく木箱に入れる。
「そんなに、売れてるのか」
「へぇ、飛ぶように売れております」
徳次郎は箱詰めした『江戸の水』を、お杉のところへと運ぶ。
徳次郎、庄三郎、お初と、三人の息の合った仕事ぶりに、三馬はじっとしていられなくなった。
店先には数人の客が待っている。
「お待たせ致しました」
お杉が箱詰めされた『江戸の水』を娘に渡すと、娘の乳母らしき女が金を払った。
「有難う存じます」
お杉が二人を見送ると、待っていたように玄人風の年増女が声をかける。
「ちょっと、それを」
「江戸の水でございますね」
ほかの客にも聞こえるように大きな声でいった。
「ほんとに、白粉がよく乗るの?」
年増女が疑うような顔をした。
「はい、白粉が、はげにくいだけでなく、香りもよろしいんですよ」
お杉は試し用の『江戸の水』を女の手の甲に垂らした。
女は気取った仕草で香りを確かめた。
「いかがですか」
「使ってみようかしら」
「ぜひ、お試しください。江戸の水、お買い上げです!」
お杉が店の雰囲気を盛り上げるように、奥に向かって声を掛けた。
「江戸の水、お買い上げ!」
徳次郎も声を張りあげて答える。
「売れてるじゃねェか」
お杉が振り返ると、三馬が立っていた。
気持が吹っ切れたのか、久しぶりに見せる三馬の笑顔だ。
「高直な化粧水じゃねェかと、心配だったが」
湯銭十文、ぬか袋四文の御時世に、五十文の化粧水は高すぎるのではないかと思っていたのだ。それが取り越し苦労だったことに三馬は安堵した。
「きれいになるためなら、女は惜しくないんですよ」
「それが、女ごころか」
男には分からぬものだと、三馬は改めて悟った。