ぷう、それは江戸(上巻)

十二、贋が出るは本家の繁盛

小雪がちらつき、朝から底冷えのする寒さだった。

このまま降り続くと夜には積もるかもしれない。

お杉が外の様子をうかがっていると、店の前を行ったり来たりする人影がいた。

―お客様かしら?

こんな日に来てくれるとは有難いことだ。

急いで引き戸を開けると、陣笠を被った侍が立っていた。
「何か、お求めに?」

お杉がたずねると、侍は無言で頷いた。
「お寒いでしょう、さあ、どうぞ、なかに!」

侍は陣笠を取ると、きょろきょろしながら入ってくる。どこか垢抜けない感じの若侍だった。
「江戸の水を」

若侍がぶっきら棒にいった。
「まあ、江戸の水でございますか」

お杉の顔から笑みがこぼれる。

『江戸の水』を買い求めてくれる初めての男客だった。
「お国元への、お土産でございますか」

お杉は嬉しさのあまり、思わず立ち入ったことを尋ねてしまう。

女物の化粧水を買い求めに来たのが恥ずかしいのか、若侍は頷くだけだ。

本所界わいの下屋敷から来た勤番侍だろうか。田舎訛りを気取られまいとしているのかもしれない。
「いくらだ?」
「五十文でございます」

お杉が答えると若侍は上がり框に金を置くと、『江戸の水』を懐に押し込み、小雪が舞い散る外へ飛び出していった。


昼過ぎになると小雪は牡丹雪になった。

牡丹雪は降っても溶けてしまうので積もる心配はない。

お杉が雪空を見上げていると、庄三郎が物思いにふけっていた。
「京の雪景色でも、思い出されているんですか」

里心でもついたのかと、お杉は思った。
「そんなんや、あらしまへん」

庄三郎の慌てぶりが少し可笑しかったので、お杉は笑いながらいった。
「お茶でも入れましょうか」
「おおきに、実は、旦那はんから、江戸の水をもう少し安く売ることはできへんかといわれてまして、考えていたところどす」

庄三郎が生真面目な顔をしていった。
「もっと安くすることが、できるんですか」
「おかみさん、詰め替え用は、どないでしょう?」
「詰め替え用ですか」

お杉はそう言いながら茶を入れる支度をする。
からのビードロを持って、きやはった御方に、江戸の水を詰めて売るんどす」
「ビードロ代が、かからないわね」
「そうどす、それだけでのうて、空のビードロがあれば、またこうてくれはります」
「何度も買いに来てくれるわけね」
「お客さんは安く買えるし、江戸の水も、ぎょうさん売れることになります。売る方も買う方も得で、一挙両得ということになりはります」
「結構なことじゃないですか」

さすが上方のお人だ。始末の心が行き届いている。

お杉は感心しながら茶を手渡した。

庄三郞は、お茶を飲みながらまた外を眺めていた。


牡丹雪は夕刻になるとみぞれに変わった。
「小雪と思って、油断したら」

お初が店に駆け込んできた。

廻り髪結いを終え、帰ろうとしたら氷雨になっていたと震えている。
「伯母さん、風邪を引きますよ」

お杉が乾いた手拭いを持ってくると、お初は髪をふきながらぽつりと呟いた。
「麻布の方で、火の手があがって」
「火事ですか!」

お杉はいまにも飛び出そうとする。
「だいぶ、離れているので心配ありませんよ」
「でも、燃え広がったら・・・・」

お杉はじっとしていられないのだ。

火事と聞いて、三馬と庄三郎がやってきた。
「霙が降ってるじゃねぇか」
「そんな、のんきなことを」

お杉の大袈裟な反応に、三馬はまたかという顔をした。

そのとき、高下駄を響かせながら徳次郎が帰ってきた。
「てえへんなことになりやした」
「やっぱり、火の手が?」

お杉が先走って言った。
「火事じゃありませんよ」

徳次郎は薬種問屋から戻ってきたところだった。
「それじゃ、何が大変なの?」

お杉がいった。
「江戸の水のことなんですよ」
「江戸の水?」

三馬が聞き返した。
「江戸の水のことを聞きまわっている男がいるそうで」
「それが、どうして、てえへんなんだ」
「江戸の水には、どんな物が入っているのだと、薬種問屋に尋ねているそうです」
「さては、江戸の水を真似た化粧水を出そうという魂胆か」
「あっしも、そうじゃねェかと」
「どこのどいつだ」
「くわしいことは、まだ、わかりません」
「もう現れたか、でも、でえじょうぶだ、化粧水と言やあ、三馬店の江戸の水だよ」
「お前さん、そんな悠長なことを」
「相手の正体がわからなくては、手の施しようがねェだろう」
「そう言えば」

お初にも気になることがあった。
「この間、堺町の中村座の前を通ったとき、男が娘たちに声を掛けていたんです。顔を洗った後に何をつけるのか、顔の脂が気になるかなどと」
「それで、娘さんたちは何と?」

お杉も気になった。
「男が面白いことを言って笑わせるもんだから、娘たちは嬉々として答えてました」
「そんなこと聞いて、どうするんでしょう」
「当たりを付けはって、いたんどすな」

庄三郎が言った。

当たりを付けるとは、いまで言うところのマーケッティング・リサーチである。
「どないな化粧水が娘たちに好まれるか、手掛かりをつかみはろうとしているんどす」
「手掛かりですか」

お杉が言った。
「どのような化粧水が好まれるか売り出す前に、いろいろと聞いているんどす。さすが生き馬の目を抜く、お江戸ですな」
「まあ、大変!」
「慌てることはねえ。様子を見てから、じっくり考えればいい」
「でも、お前さん、それって、江戸の水を真似た贋の水ですよね」
「贋の水か、うまいことをいうじゃねェか」 「感心してる場合じゃ、ありませんよ」
「言い得て妙とは、このことだな」
「それより、贋物が出るのは困りますよ」
「いや、贋が出るは本物のあかしだ。本物に贋物は付きものだからな」
「そんな憑きものは、お断りです」
「贋物が出ると、本物の評判が高まるぞ」
「評判が上がっても、贋物が出るのは困りものです」
「評判が評判を呼んで、売れるということもある」
「贋物が出て、どうして売れるんです」
「贋が出るは、本家の繁昌というからな」

三馬はそう言って笑い飛ばした。

(下巻に続く)