ぷう、それは江戸(上巻)

一、本町通りの式亭三馬店

江戸城の常盤橋御門から大伝馬町へ抜ける本町通りは、江戸開府で真っ先に町割りが行われたところである。

文化・文政期には、商家が軒を連ねる賑やかな通りだった。

ここに店を構えることができるのは、江戸商人にとって〝意気〟なことであった。

文化七年(一八一〇)十二月二十六日、滑稽本『浮世風呂』の作者、式亭三馬が本町通りに薬種店やくしゆだなを開業した。

本町通りは売薬や生薬きぐすりなどを扱う薬種屋が多く、薬種町とも呼ばれていた。


男は『延寿丹』と大振りな文字で染め抜かれた垂れ幕を見上げ、誇らしげな面持ちであたりを見まわした。戯作者の式亭三馬である。

太った男が亀のように、ゆったりとした足取りでやってくる。
「商いは、やっぱり、目抜き通りだな」

噺家の三笑亭可楽が、三馬店の開店を祝って駆けつけてくれたのだ。
表店おもてだなに構えはしたが、ここまで辿り着くまでにどれだけ、手間ひまが掛かったことか」

可楽を見ると気持の高まりとは裏腹に、三馬はつい弱音を吐いてしまう。

これまで三馬は黄表紙や洒落本などを書くかたわら、日本橋十九文横町の長屋で古書を商っていた。

ところが、文化三年(一八〇六)の大火で売り物の書籍を焼失してしまった。北総佐原の知人宅に、いっときは身を寄せていたが、いつまでも世話になっているわけにはいかないと数か月ほどで江戸に戻った。

本石町四丁目新道に移り住むと、『浮世風呂』男湯之巻と女中湯之巻など数多くの作品を書き上げた。

その無理が祟って腫気しゆき(はれもの)に悩まされ、その後には痛風を患った。

その痛みも治まり、町年寄の樽屋から表店を借り受けることができて、本町二丁目南側上木戸二軒目に薬種を商う三馬店を構えることができたのだ。
「あの、でかい文字の垂れ幕には、三馬さんの思いが込められてるな」
「文字が、ちと、でか過ぎたかな」

「ど〜んと、いいじゃねェか、大店と肩を並べるとなると、あのくれェ、でっかくねェと、太刀打ちできねェってもんだ。売り広めに大き過ぎはねェよ」
「可楽さんから、そう言ってもらえると、うれしいぜ」

三馬が笑うと厳めしい鼻が際立って見えた。

三馬と可楽は、性格は正反対だが何かと気が合った。

三馬は筆先で笑いを取るが、可楽は口先で笑いを取る。二人はめざすものが同じだった。

「浮世風呂も、はんを重ねているそうじゃねェか」
「これも、可楽さんのおかげですよ」

数年前、絵師の歌川豊国の家で可楽の落噺(落語)を聞く会が開かれた。

銭湯をネタにした可楽の噺に三馬が笑いこけていると、板元はんもとの西村源六から銭湯の話を書いてみないかと持ちかけられた。

寛政の改革後で遊里の話が禁じられ、庶民の日常の暮らしを面白可笑しく落噺風に書いてほしいというのだった。

三馬は落噺の話術を採り入れた『酩酊気質なまえいかたぎ』という滑稽本を書いていたので、二つ返事で引き受けた。そうして出来上がったのが『浮世風呂』だった。
「これで、腰を据えて書けるな」
「いやいや、商いと戯作の二足のわらじよ」
「そういゃ、こちとらも同じだ、扇子一本、振ったところで、暮らしは立ちゃしねェ」

可楽も噺家と煎餅屋の二つの顔を持っていた。日本橋上槇町の借家で、女房のおさよに煎餅を売らせている。
「可楽さん、始まるぞ!」
「いよいよ、弁造の登場だな」

二人は店の向かい側から弁造を見守る。

弁造は照降町てりふりの傘屋の長男に生まれた。

照降町は荒布あらめ橋と親父橋を結ぶ一丁ほどの通りで、片側に雪駄屋が軒を並べ、向かい側に傘屋がいくつか並んでいる。照っても降っても、どちらかが商売になることから照降町と呼ばれていた。

弁造は天気に左右される傘屋が嫌いで、家業を弟に譲り、噺家になりたいと可楽のもとに弟子入りした。ところが、稽古をつけるとすぐに誰かの物真似になってしまい、弁造は自分の語りができなかった。

しかし、役者の声色がうまく、よく通る声をしていたので、可楽は三馬に頼んで『延寿丹』の引札の口上をやらせてみることにしたのだ。

弁造は緊張しているのか、何度も唇をなめている。


この度、京の田中宗悦製する『延寿丹』を本町二丁目
式亭三馬店にて売り弘め仕り候
のぼせを引き下げ、痰咳に即効あり
たんせき腎を増し、精を強くし
常に気弱く、食進まず
痩せたる、お人によし
世に聞こえたる良薬なり
皆々様方には、ご贔屓ひいきお引き立ての程
御願い上げ奉ります


「いい声をしてるじゃねェか、間合いの取り方もいい」

三馬は、弁造の出来に満足している。
「よかった、これで弁造も、やって行けそうだ」

可楽は自分が引導を渡した手前、弁造には引札配りとして一人前になってほしかった。

そのとき、弁造の横にいた細面の男が、集まった人々に語りかける。

「顔色悪しき御方、暑さ寒さに負けはる御方には、よう効きますよって、ぜひ、試しておくれやす」

道行く人は聞き慣れぬ上方言葉に足を止める。
「おおきに、皆々様方には、ご贔屓のほど、よろしゅう、お頼み申します」

男は庄三郎といった。京の製造元が『延寿丹』の売り広めに差し向けてくれた人だった。
「さて、皆さま、これなる引札は、式亭三馬先生の筆による引札にございます」

弁造が『延寿丹』の引札を配りはじめると、
「延寿丹といやぁ、たしか、本町一丁目で売っていたんではねぇか」

杖をついた老人が話しかけてきた。
「よくぞ、申された!」

弁造は、ここぞとばかりにまくし立てる。
「延寿丹本舗江戸店は、本町一丁目にございましたが、ぐる文化三年の大火で焼失し、余儀なく撤退していましたところ、こたびは三馬店が関東売弘所うりひろめどころとなり、本町二丁目にて売り広め仕ることと相成りました」

三馬の女房お杉が待ってましたとばかりに、
「延寿丹は、こちらでございます」

積み上げてある『延寿丹』の袋を指し示す。
「そうじゃったか、それじゃ、一袋、こうていこう」
「ありがとう存じます!」

『延寿丹』は店びらきの目玉商品だった。

お杉は、きびきびと客の応対に励んでいた。
「張り切ってるじゃあねェか」
「あいつは、商いが心底、好きなんだ」
「そいつは、心強いな」

可楽の女房おさよも、かき餅や五色あられを売っているが、噺家の女房にしては愛想なしだった。客に世辞が言えないので、煎餅が一枚も売れない日もある。

お杉は可楽に気づくと、にっこりして頭を下げる。

お杉の実家は骨董や古書などを売るかたわら、俳書や噺本などを出す翫月堂がんげつどうという書林だった。三馬は九歳から十八歳まで翫月堂に奉公していたので、お杉は奉公先の娘ということになる。

母親に手を引かれた男の子が来ると、お杉は駆け寄った。
「まあ、可愛いお子だこと」

お愛想を言いながらも母親が気づくように、小児の疳の虫に効く『小児丸』を手に取って見せた。文化三年の大火後、お杉は月足らずで生まれた男の子を亡くしていた。

母親は何も買わずに、子どもの手を引くと帰っていった。

しばらく、お杉は親子の後ろ姿を眺めていたが、気を取り直すと奥に声をかける。
「徳さん、御歯みがき粉は、よく見える場所に並べてくださいよ」
「へい!」

手代の徳次郎が答えた。

式亭家伝の『御歯みがき粉』は、店びらきに合わせて売り出したものだ。

人々の間に歯みがきの習慣が広まり、多くの店から売り出されるようになって、競争の激しい商品となっていた。
しやくの黒薬は、お腹の痛みに効く薬だから、もっと手前に置いてね」
「へえ、金勢丸はここでよろしいですか」
「お酒の酔いをさます薬だから、奥の方でいいわ。あぁ、それと、血の道に効く天女丸は下の棚に置いてちょうだい」

お杉は薬種の並べ方にも細かい指示を出す。
「匂い袋や元結は、手に取って見えるところに、あら、竜樹散の能書はどうしたの」
「あっ、うっかりして」

徳次郎が慌てて、何か書いてある半紙を持ってきた。

三馬の筆で『竜樹散』の効能が書かれている。

つまり、商品に貼るPOP広告である。


御目あらひくすり『竜樹散』
竜樹菩薩秘法の目ぐすり
三馬◎◎、年来用い見て、試したる名方也


「それじゃ、あっしは、これで」

可楽は東両国の定席じょうせきが始まるからと帰ろうとしたが、すぐに引き返してきた。
「実は、頼みてェことがあるんだが」

可楽が言いかけたところに、三馬の弟平八がやってきた。
あにさん、本日はおめでとう存じます」
「おお、来てくれたか」
「可楽師匠、ご無沙汰致しております」
「どうだい、忙しいかい」
「まあまあです」

平八はそう言うと苦しそうに肩で息をした。
「三馬さん、それじゃ、また近いうちに寄らせてもらうよ」
「そうかい、おっと、何か話があったんじゃねェのかい」
「いや、またにするよ、じゃあ!」

可楽は、三馬と平八に手を振ると帰っていった。

三馬は弟の顔色がよくないことに気づいた。
「どうした?」
「ちょっと、風邪をひいて」
「調子がよくねェのに、わざわざ来てくれたのか」
「兄さんの目出度い門出だから」

平八は江戸橋四日市の書林、上総屋に奉公した後、日本橋音羽町の書林、三浦屋の養子となり、いまは石渡平八を名乗っていた。

三馬と平八の父は板木師だった。三馬の戯作の板木を彫ったこともあるが、母の死後、父が若い後添えを迎えてからは二人とも疎遠になっている。

弟思いの三馬は、養子の平八が肩身の狭い思いをしていないかと、『浮世風呂』男湯之巻と女中湯之巻を板元の西村源六と一緒に、弟平八の書林も板元に加えていたのだった。
「浮世風呂の次回作も、お前のところに頼むからな」
「そいつは楽しみだな」

平八は嬉しそうな顔をするが、いまひとつ表情が冴えなかった。
「早く帰って、休め!」

三馬の言葉に頷き、平八は咳き込みながら帰っていった。

―しまった!

平八に『延寿丹』を飲ませようと思ったのに、三馬は渡しそびれてしまった。